感動は物語を生み、人は共鳴する。

千人回峰(対談連載)

2020/12/18 00:00

2020年総集編 人には物語がある。

構成・文/奥田喜久男

週刊BCN 2020年12月21・28日付 vol.1855掲載

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
感動は物語を生み、人は共鳴する。
そして、さまざまな示唆を得る。
今年も物語を紡げただろうか。
人生を織りなす縦糸、横糸。
一本一本紡げただろうか。
“千人”の回峰は“千”の物語を生む。
 
 
数据堂(北京)科技股份有限公司
創設者兼CEO
斉 紅威

249人目
AIは神秘的で可能性にあふれ チャレンジングでチャンスをもたらすもの
『週刊BCN』vol.1807(1/6) 
創業時に志したのは「世界最大のAIデータサービス会社になる!」
『週刊BCN』vol.1808(1/13)

 
PAOSNET(上海)首席代表
文化研究者、伝統工芸師
王 超鷹

250人目
文化大革命に翻弄された少年時代 伝統工芸への道を見いだす
『週刊BCN』vol.1809(1/20)
勉強したい一心で日本に留学 中国市場に新たなデザインの風を呼び込む
『週刊BCN』vol.1810(1/27)

 
青山学院大学 大学院
社会情報学研究科 特任教授
阿部和広

251人目
Macintoshの登場に 次元の違う未来を見た
『週刊BCN』vol.1811(2/3)
子どもたちには教えないで 学ぶためのお手伝いだけをする
『週刊BCN』vol.1812(2/10)

 
クオンタムリープ
代表取締役ファウンダー&CEO
出井伸之

252人目
自分にとってではなく ソニーにとって何が最善かを判断基準にしてきた
『週刊BCN』vol.1813(2/17)
社長になったときよりも 事業部長になったときのほうがうれしかった
『週刊BCN』vol.1814(2/24)

 
コンピュータソフトウェア著作権協会(ACCS)
専務理事
久保田 裕

253人目
権利者とともに著作権を守り ソフトウェア産業を支える
『週刊BCN』vol.1815(3/2)
法と電子技術と教育は 著作権保護に欠かせないものだ
『週刊BCN』vol.1816(3/9)

 
久留米工業高等専門学校
制御情報工学科教授 
黒木祥光


254人目
難解なテーマでも理論通りに答えが出てくることが楽しい
『週刊BCN』vol.1817(3/16)
「人を育てる人」を育てることが 未来の創造に欠かせない――第254回
『週刊BCN』vol.1818(3/23)

 
千葉県南房総市教育委員会
教育長
三幣貞夫

255人目
教育とは生き方を教えること教える続けるために学び続ける
『週刊BCN』vol.1819(3/30)
教師にとって大切な資質は 「謙虚さ」と「畏れ」を常に持つことだ
『週刊BCN』vol.1820(4/6)

 
皇學館大学 教育学部教授
博士(学校教育学) 
大杉成喜

256人目
学生時代、教授に声をかけられて 障がい児支援の道を歩みだす
『週刊BCN』vol.1821(4/13)
障がいのある子が参戦・勝利することで eスポーツのあり方を変えたい
『週刊BCN』vol.1822(4/20)

 
アスク
代表取締役
武藤和彦

257人目
初めてコンピューターにふれたときから この業界の発展を予見した
『週刊BCN』vol.1823(4/27)
定点観測をすることで新たな技術とニーズを見きわめる
『週刊BCN』vol.1824(5/4・11)

 
ベガシステムズ
代表取締役
若尾和正

258人目
世界初の完全自動化で LANケーブルの構造改革を果たす
『週刊BCN』vol.1825(5/18)
理論と実践の隙間に光る 新たな定理を発見するのが楽しい
『週刊BCN』vol.1826(5/25)

 
古典藝術家
松本瑜伽子(チャチャ)

259人目
特異な家庭で育ち数奇な運命に翻弄される
『週刊BCN』vol.1827(6/1)
「芸は身を助く」を体現 人生の後半は芸の真髄を生かす
『週刊BCN』vol.1828(6/8)

 
アンジコア
代表取締役
山根維随

260人目
「身体をよくする仕事がしたい」という思いが 漆喰と無垢の木の家づくりにつながった
『週刊BCN』vol.1829(6/15)
夢を追い、社会に貢献するために 120歳まで生き続ける
『週刊BCN』vol.1830(6/22)

 
登山家
(無名山塾創設者)
岩崎元郎

261人目
あんなキャラバンシューズを履いて山に登りたいなぁ
『週刊BCN』vol.1831(6/29)
一発のチャレンジに懸けるよりも 地図に赤線を引いていくことを大切にしたい
『週刊BCN』vol.1832(7/6)

 
月兎舎
発行人
吉川和之

262人目
今年で創刊20年伊勢発信のローカル誌を今日も編む
『週刊BCN』vol.1833(7/13)
地域の情報誌の立ち位置はクチコミ以上マスコミ未満がちょうどいい
『週刊BCN』vol.1834(7/20)

 
山岳ガイド/旅行作家
堀 源太郎

263人目
人生のすべての原点は自らの足で東海道を踏破したことにあった
『週刊BCN』vol.1835(7/27)
30年間“戦場”で働き20年間、アウトドアの世界を渉猟する
『週刊BCN』vol.1836(8/3)

 
伊弉諾神宮 宮司
本名孝至

264人目
国生み神話の里とお社を お守りして30年
『週刊BCN』vol.1837(8/10・17)
「神々のご意向」に従い 流される間に間に生きる
『週刊BCN』vol.1838(8/24)

 
ユニコーン代表取締役社長
中島勝幸

265人目
持ち前の“高専魂”を発揮し 障がい者の日常を支援する
『週刊BCN』vol.1839(8/31)
障がい者を支援することが 人生最後の勝負ととらえる
『週刊BCN』vol.1840(9/7)

 
フジシール 代表取締役社長
松﨑耕介

266人目
同じ外資系企業でも国民性が異なれば事業展開も違ってくる
『週刊BCN』vol.1841(9/14)
人生の目標はより大きな組織のリーダーとして挑戦すること
『週刊BCN』vol.1842(9/21)

 
網屋 代表取締役会長CEO
伊藤整一

267人目
父の経営姿勢に学び「破産だけは絶対にすまい」と
『週刊BCN』vol.1843(9/28)
積極的に社会活動へ参画し 日本のIT企業の復権と次代の人材育成に挑む
『週刊BCN』vol.1844(10/5)

 
キューアンドエー
最高幸福経営責任者(CHO)
リレーション・ブランディング戦略本部長兼ハピネス推進室長
安達あける

268人目
キャリアのスタートは銀行勤務 海外雄飛を夢みて外為部門へ
『週刊BCN』vol.1845(10/12)
私には三つの幸運がある。 それは、運と縁に恵まれ、勘が鋭いこと
『週刊BCN』vol.1846(10/19)

 
みほ歯科医院 日本ALS協会
元院長、広島県支部長
三保浩一郎

269人目

本の制作に全力を尽くすことで 病気を忘れられた
『週刊BCN』vol.1847(10/26)
身体は病魔に侵されようとも 心までは侵されない
『週刊BCN』vol.1848(11/2)

 
オーディーエス
代表取締役社長 
砂長 潔

270人目
従業員を守り、経営を維持するため 自ら退路を断つ
『週刊BCN』vol.1849(11/9)
フレキシブルな動きと発想で ユーザーの要望に応えるソリューションを
『週刊BCN』vol.1850(11/16)

 
Psychic VR Lab取締役COO
事業構想大学院大学教授
渡邊信彦

271人目
変化に適応し、新しい価値を生み出すことが ワクワクするほど楽しい
『週刊BCN』vol.1851(11/23)
テクノロジーの優位性が 一瞬にしてなくなることもある
『週刊BCN』vol.1852(11/30)

 
SAPジャパン
代表取締役会長
内田士郎

272人目
海で亡くした友の無念さを思い 志のため一念発起する
『週刊BCN』vol.1853(12/7)
苦しいことがあったとしても 自分が嫌だと思う仕事をしたことはない
『週刊BCN』vol.1854(12/14)

番外編 こぼれ話

14年ぶりの再会—— 高 基秀 ——

 博多から釜山の港まで高速船ビートルで移動した。荷物を抱えた人たちが待合室で話している。静かな会話が聞こえる。他愛のない話で、実にのんびりした旅の気分に浸りながら乗船を待った。お客は10人もいただろうか。旅人は私ぐらいで、行商の趣が濃い人たちだ。対馬には立ち寄らないで、直行した。船は速度を上げて快走する。地図上では日韓を隔てる狭い海も、ビートルから見渡す海は、大海原と思えるほど広々している。高電社の創業者・高基秀さんは1951年冬、イカ釣り漁船の船底に身を隠して日本に向かった。つい先頃、その高電社から郵便物が届いた。
 

 「あれ? 何だろう」。書籍のようだが、思い当たる節はない。「おや、まあ」。これは懐かしい高基秀さんの自伝だ。「ちょっと、待てよ」。亡くなられたのは2006年5月22日だから、14年ぶりの再会だ。嬉しくなる。お久しぶりです。書籍の名前は『母国ふたつ』。著者は高基秀/ライフストーリー編著者・岩城陽子。高さんの書き下ろし原稿に、奥さまが史実を添えながら肉付けをされたものだ。1934年に済州島で生まれた。故郷から早稲田大学での思い出。そして30歳の結婚と同時に大阪で電気工事業を創業。65年当時の日本は経済成長期の真っ只中である。事業を拡大しながら経営にパソコンを使おうと学ぶうちに「これは伸びる」の直感から45歳でパソコン学院を立ち上げる。先見性もあるが、それを上回る勇気がある。

 高さんは当時、すでに成功者である。それなのになぜ。それも異業種での新規事業である。不安とか恐れという感情はなかったのだろうか。それだけではない。さらに創業事業の延長線上に「同時翻訳ソフト」の開発事業に舵を切っている。日本語がわからないことでおかした失態。恐怖の体験を経て、日本語を習得することの苦労を知っているだけに、韓日同時翻訳ソフトを開発するという挑戦への動機は理解できる。しかし、挑戦するというマグマはどこから噴出するのだろうか。理解できない。同時翻訳の世界は奈落の底と言えるほどに終わりがなくて深いのだ。当時は研究機関や大企業のテーマであった。ここまで書き進めながら思う。この人は限界をつくらない男だ、と。
 

 開発を進めるにはパソコンの知識が必要だ。「私は英語が読めて数学の知識があったからマイコンが理解できた」と自伝に記している。高さんの顔が思い浮かぶ。ひょっとすると、日韓の同時翻訳ソフトの開発は“母国ふたつ”という人たちが味わうすべての人たちへのプレゼントソフトにしようと高さんは考えたのではないか。自身の切実な体験がエネルギーとなって、周囲に呆れかえられても永遠に手がけようと決めていたのではないか。釜山港に着いた。下船する人たちの会話はハングルになっていた。(BCN 奥田喜久男記)