東京駅から特急で2時間弱。安房鴨川で内房線に乗り換え、南三原という小さな駅に降り立った。ここに南房総市の教育委員会がある。旧丸山町役場だった1階の広い執務スペースには間仕切りが一切なく、遠くの席まで見通せる。オープンな職場であるべきという教育長の三幣先生の考えによるものだ。そして、教育長席を囲むように本棚が設えられている。そこにあるのはすべて先生の蔵書。「家内は“捨てろ”というのだけれど、職員に自由に読んでもらえればと思って」と説明する先生は、本好きの読書家だ。 (本紙主幹・奥田喜久男)

2020.2.20/千葉県南房総市丸山分庁舎にて

教育は子どもたちの生きる力を実感できる仕事

奥田 三幣先生は、2010年から南房総市の教育長を務めておられますが、もともとのご専門は?

三幣 小学校と中学校・高校の社会科です。

奥田 小・中・高とそれぞれの校長を歴任されたというお話ですが、そのスタート地点はどこだったのでしょうか。

三幣 小学校です。学生時代に野球をやっていたので、若い頃は中学校の教師になって野球部の指導をしたいと思っていたのですが、教頭になるまではずっと小学校に勤務していました。

奥田 もともと、教師になろうと思われていたのですか。

三幣 大学3年生のときの教育実習で、実習担当の先生から「君は教師に向いている」とほめられたのがきっかけです。教育の仕事は毎日変化があり、子どもたちの生きる力を実感できる貴重な仕事だと思いました。この教育実習の後、教員になるかどうかという迷いはなくなりましたね。

奥田 天職を見いだした、と。

三幣 ところが、就職して5~6年、30歳を過ぎた頃、この仕事から離れたくなりました。

奥田 それはどうして?

三幣 学生時代の蓄積が枯渇したというか、アウトプットばかりでインプットがないことに焦りを感じたのですね。違う世界も見なければダメになってしまうと。「自分は教師に向いていないのではないか」とか「自分が子どもたちを教えていいのか」というように、自分が教職にあることへの畏れのようなものが生まれました。

奥田 ある程度の経験を積んだからこそ、そう思われたのかもしれませんね。

三幣 結局、教職を離れることはありませんでしたが、千葉県には長期研修制度があるため、これを利用して1年間大学に通って研修を受けました。

奥田 なるほど。そこでインプットが得られたのですね。ところで、教師になってから特に意識されたことはありますか。

三幣 目の前にいる小学生に話をするとき、この子たちが30歳、40歳の大人になったときも納得できる言動をとろうと思ったことですね。

奥田 相手が子どもだからといって、見くびってはいけないと。

三幣 そうですね。自分のことを先生として見てくれる子どもたちの思いにいつまでも堪えられる言葉を発しようと考えました。

小説を読むことは
生き方を教えるための糧となる

奥田 そうしたことに、気づいたきっかけは?

三幣 おそらく、学生時代に出合った山本周五郎の小説の影響ですね。

 山本周五郎が亡くなった後、その全集が毎月一冊ずつ刊行されたのですが、発行日には野球部の練習を終えた後、バスに乗って書店まで買いに行き、下宿で夜通し読んだものでした。私は、そこに出てくる人々の生き方に感銘を受けたのです。それは自己犠牲の精神だったり、人生において何を大切にしなければならないかという考え方だったりするのですが、そうしたことが自分の中に吸収されていったのだと思います。

奥田 そうした思いに至る素地のようなものはあったのですか。

三幣 親父の生き方でしょうか。私の父は外面がよかったんですよ。

奥田 それはどういう意味ですか。

三幣 かっこよく生きるというか、自分の利は後回しにするようなところがありました。そういうことが、知らず知らずのうちに影響を与えていたのかもしれませんね。父は66歳で亡くなるのですが、そのときに言われたのが「借金をしてでも人とつき合え」ということでした。

奥田 お父さまは「他利」の人だったんですね。

三幣 父は胃がんで亡くなったのですが、最期の3か月は自宅で過ごしました。痛みに耐えながら自身の衰えを認識し、それを消化しているような感じでしたね。

 そして、ある日の朝、自分の世話をしてくれている家族を全員枕元に呼び寄せ、「ありがとう。これでおしまいにするから」と言って目をつぶり、ほどなくして息を引き取ったんです。

奥田 語弊があるかもしれませんが、とてもかっこいい人生の幕引きですね。

三幣 そうですね。私にとっても「いかに生きるか」とともに「いかに死ぬか」が大きな課題です。父親よりかっこよく死にたいじゃないですか。それには、最期まで意識が明晰でないといけない(笑)。

奥田 お父さまは、なぜそういう生き方をされたのでしょうか。

三幣 おそらく、戦争体験がその根底にあるのでしょう。当時のことは一切語りませんでしたが、若い頃、満州や北京での軍隊生活で心身ともに非常に厳しい思いをしたようで、それが人間的な老成をもたらしたのではないかと思います。「暦年齢」以上の経験をしたことが、その後の人間形成につながったのでしょう。

奥田 暦年齢以上ですか。お父さまは20歳そこそこで、40代、50代が経験するようなことに直面してしまったと。ところで、ご自身の青春時代はどんな様子でしたか。

三幣 1967年に大学に入学したのですが、まさに当時は学生運動が激化していく時代でした。でも、私はそうした風潮に背を向け、野球の練習に打ち込みながら、山本周五郎に耽溺していたという変わり者だったんです。

奥田 いまでも本はよく読まれますか。

三幣 平均して週に2、3冊くらいです。読むのは小説が多いですね。

奥田 やはり読書家ですね。

三幣 30歳くらいのとき、勤務していた学校の校長から「専門書ばかり読むな。小説を読め」と教えられたのです。

奥田 それはなぜですか。

三幣 さきほど、インプットがないことに焦りを感じたとお話ししましたが、若い頃は経験がないので、自分より上の世代の先生と仕事をしていくためには、専門書を読んで知識を蓄積するしかなかったわけです。ところが、校長は小説を読めと勧めます。「教育は生き方を教えることであり、小説にはいろいろな生き方が描かれている。それを読むことで、一つだけの生き方ではなく、さまざまな生き方を疑似体験できる」と。それ以来、山本周五郎以外の小説もずいぶん読むようになりました。

奥田 なるほど。読書は生き方を学ぶことに通じるのですね。(つづく)

年間250枚も書いた家庭向けのプリント

 奥に映っている2点の印刷物は家庭向けのプリント、手前の冊子は職員向けの週報。いずれも三幣先生の手書きによるものだ。発行頻度が最も高かったのは、木更津の小学校に勤務していた30代後半の時代で、最高で年間250枚! ほぼ毎日のペースである。「4年間で1000枚を目指したが果たせなかった」とは三幣先生の弁。いやはやすごいアウトプットの量です。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第255回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。