本文でもふれているが、久保田さんは色弱のため技術者になることをあきらめた。幼い頃、学校の写生大会などで描く絵も、色弱のせいでエキセントリックなものに仕上がってしまったという。でも、広島の竹原で過ごした小学校時代、図工の先生が「君にしか引けない線、君にしかわからない色で描きなさい」と励まし、認めてくれたそうだ。そうした大人の言葉が、その後の人格形成や最近よく言われる自己肯定感につながるのだろう。久保田さんの正義感はその証左である。(本紙主幹・奥田喜久男)

2020.1.10/東京都文京区のコンピュータソフトウェア著作権協会にて

赤緑色弱のせいで技術者志望から法律家志望へ

奥田 最初に久保田さんとお会いしたのは、もうだいぶ前のことですよね。

久保田 そうですね。私は1988年に、現在のコンピュータソフトウェア協会(ACCS)の前身である、日本パーソナルコンピュータソフトウェア協会(現コンピュータソフトウェア協会:CSAJ)内のソフトウェア法的保護監視機構で活動を始めました。おそらく、その頃に奥田さんから「あなたがやっている運動について、うち(週刊BCN)で書きなさいよ」と言われたのがお付き合いの始まりです。それが、私がコンピュータメディアに書いた最初の原稿です。

奥田 それから30年以上にもなるのですね。ところで、それまで久保田さんはどんな足跡を残してこられたのでしょうか。

久保田 子どもの頃にさかのぼると、父は電源開発(Jパワー)の技術者で、私が3歳の頃から小学校2年くらいまで、奈良の池原ダムの建設に携わっていました。水力発電の仕事ですね。そんな事情で、三重との県境にある大台ケ原のあたりに住んでいたんです。

奥田 大台ケ原ですか! 私は山好きだからよく知っていますが、秘境のようなところですよね。

久保田 そうですね。タヌキやシカが出るような山奥で、当時はまだ土葬でしたし、まるで横溝正史の世界だったと後で思いました。その後、父は広島の竹原火力発電所の建設に携わり、私は中学1年まで瀬戸内の豊かな環境で過ごしたんです。

奥田 いちばん多感な時期ですね。

久保田 毎日のように段々畑で虫を捕ったり、近くの海で泳いだりしました。とてもいい時代で、広島はいまでも第二の故郷と思っています。

奥田 ということは、お父さんの影響が大きかったのではないですか。

久保田 美しいアーチ型のダムなど見せてくれたりして、自分にとって父はかっこいい技術屋でした。だから私も技術者になりたかったのですが、小学校低学年の頃、赤緑色弱であることがわかりました。色弱だと理系学部では数学科くらいしか進むことができないんですね。

奥田 技術者の道には進めないと……。

久保田 ええ、それで大学卒業後は、2年ほど司法試験の勉強に励みました。

奥田 技術者志望から法曹志望に切り替えたと。法律家になろうと思ったきっかけは何ですか。

久保田 母方の祖父やおじが弁護士だったので身近な存在だったということはあります。ただ、周りには弁護士志望の人が多かったので、へそ曲がりの私は検事になりたいと考えていました。刑法や刑事訴訟法、憲法など、公法系の法律が好きで、一生懸命勉強していましたね。

教育と法律を固めないと技術は簡単にコピーされてしまう

奥田 なるほど、検事ですか。考えてみれば、いまも著作権侵害に立ち向かう立場ですから、同じようなことをしていると言えなくもありませんね。

久保田 たしかにかつて検事を目指していたことが、いまにつながっているかもしれません。現在のACCSに入ったとき、海賊版退治ということが、私の中では「無体物である知的財産の秩序維持」という概念につながったのです。この国では、そういうことがしっかりとなされていないから産業が育たないと考えました。まさにこのとき、かつて司法試験に挑戦する中で学んだ公法系の知識に結びつき、自分にとってこんないい仕事はないかもしれないと思ったのです。

奥田 結果的に司法試験には受からなかったけれど、その経験や知識は生かせると。

久保田 そうですね。それで私は司法試験を断念した後、雑誌の編集部を経て、日本ケミコンのグループ会社に就職しました。ここで営業マンとしてAVメーカーにコンデンサーやコネクターなどを売りに行っていたのですが、得意先を訪問している中で、こんな価格競争ばかりしているハードはもうダメだと思っていました。そんな中、ACCSの前身からお誘いがあったわけです。

奥田 それで、ソフトウェアの著作権保護のほうに行かれたわけですね。

久保田 そうですね。でも、日本ケミコンのグループ会社ではやり手の営業マンだったこともあって、社長自ら慰留してくれたりして、なかなか辞めさせてもらえませんでした。だから半年ほどは、昼間に後任者への引き継ぎを行い、夕方からいまのCSAJに行って仕事の手伝いをするというような二重生活が続いたんです。

奥田 そして、CSAJのソフトウェア法的保護監視機構に入ってからは?

久保田 当初は、CSAJの事務局次長的な仕事をしてくれと言われたのですが、通産省(現経産省)傘下のCSAJで著作権保護活動をしても、法改正につながらないことに気づきました。通産省にロビイングしても著作権関連の監督官庁ではないため、実効性がないわけです。

奥田 なるほど。

久保田 そこでパッケージソフト会社を集めて、文化庁の下に社団法人をつくる必要性を説きました。もちろん、旧通産省傘下の団体から抜けて、旧文部省(文化庁)傘下の社団をつくるということはいろいろな意味で難しいことでしたが、90年にCSAJから独立し、現在のコンピュータソフトウェア著作権協会に名称変更し、翌91年、文部省の許可を得て社団法人(現在は一般社団法人)となったのです。

奥田 パッケージソフト会社を集めたということですが、どんな方々が力になってくれましたか。

久保田 当時、ジャストシステムの浮川和宣さんから「一太郎」のプロテクトを外そうと思うがどうかと尋ねられたことがあります。私は、教育と法律を固めないと技術は簡単にコピーされてしまいますと答えました。そのためには、法務面を強化し、著作権を守る運動を展開すべきだと。当時、これに賛同してくださったのが、浮川さんをはじめ、マイクロソフトの古川亨さん、ロータスの菊池三郎さん、光栄(現コーエーテクモグループ)の襟川恵子さん・陽一さんご夫妻、東海クリエイトの猪俣勝彦さん、T&Eソフトの横山俊朗さんなどで、本当にこうした方々には草創期のACCSを支えていただきました。

奥田 そうそうたるメンバーの理解が得られたということですね。

久保田 技術的な面はさておき、権利者とともにソフトウェア産業を支える気概を持っていました。権利を確立すれば、それは必ず業界のためになると。(つづく)
 

『ことばの教育を問いなおす』(鳥飼玖美子・苅谷夏子・苅谷剛彦著、ちくま新書)

 久保田さんは中学校時代、この本の共著者・苅谷夏子氏とともに国語教育の神様といわれた大村はま先生の授業を受けた。本書では、母語を言語として思考するために何が必要かを論じており、久保田さんが取り組む著作権とも密接に関係するという。そうしたことから、かつてのクラスメート苅谷さんが事務局長を務める大村はま国語教育の会に久保田さんも参加。ことあるごとに、知り合いにこの本を勧めているとのことだ。

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第253回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。