82歳にして、ダンディーさと知的好奇心に満ちあふれる出井さん。現在も、数多くの若い経営者との交流があり、講演活動も精力的にこなしておられる。本編でもふれているが、その自信とエネルギーの源は、おそらく子どもの頃から培ってきた知的体力にあるのだろう。お話を伺っているうちに、秋葉原のパーツ屋、早稲田の写真部、欧州への留学、そしてソニーという企業の存在が、私の頭の中で一本の線を形成していくかのように感じられた。(本紙主幹・奥田喜久男)

2019.12.19/東京都港区のクオンタムリープにて

自分に影響を与えた両親の生き方と言葉

奥田 出井さんは、お父さまが早稲田大学の教授、お母さまが医師の娘で後のお茶の水女子大を卒業されるという知的な家系に生まれましたが、そうした意味でご両親の影響は大きかったのではないでしょうか。

出井 親父は栃木県佐野の商家の出でアメリカに留学し、早稲田の先生をやっていたのですが、途中で辞めて、ジュネーブのILO(国際労働機関)での国際官僚の仕事に応募したんです。その影響は僕にとって大きかったですね。

奥田 大学教授を辞めてヨーロッパへ?

出井 そうですね。僕が生まれる前、いわゆる国際エコノミストとして働いていたんです。それでヨーロッパの話をさんざん聞かされていたものですから、僕も後年、ヨーロッパに留学したのです。それは完璧に親父の影響ですね。

奥田 お母さまからは「得意なものを持て」と、いつも言われていたという話を聞いたことがあります。

出井 終戦時は中国の大連に住んでいたのですが、一時ソ連領になってしまい、わが家は難民的な生活を送っていました。難民のような生活というのは、日本国からの保護がまったくない生活ですね。

 それでけっこう苦労したのですが、以前から親父が「女性でも仕事を持て」と言っており、母は技術を身につけて、大連に渡る前は東京の青山で洋裁店をやっていました。その特技を生かせたことで、難民生活の間もソ連軍将校の奥さんの洋服をつくって生き伸びることができた。そのせいもあって、人間は何か得意なものを一つ持たなければいけないといつも母から言われていて、それがずっと頭に残っているんです。

奥田 なるほど、やはりご両親の影響は大きいのですね。

出井 でも、僕は親父がやっていた大学の先生がイヤでビジネスマンになったんですよ。

奥田 どうしてイヤだったのですか。

出井 本ばかり読んで実社会とあまり接点を持たないような仕事はちょっと自分には合わないなと思いました。親父は、学者の仕事を継がせたかったようなのですが……。

奥田 それでソニーに入社されますが、その決め手は何だったのでしょうか。

出井 親父が兼務していた東洋経済新報社の研究所に行って調べたのですが、「いい技術を持っているけれど、まだまだ人材不足」と聞いて、これはいいなと。

 子どもの頃、オーディオ少年だったんですよ。当時は秋葉原のパーツ屋に入り浸り、ソニーにも半導体に惚れ込んで入ったというような経緯もあります。僕は早稲田の経済を出ましたが、本当は技術屋にもなりたかったんです。写真も好きで、プロを何人も輩出している早稲田の写真部に所属していました。いまでも早慶写真展にずっと作品を出しているんですよ。

1年働いたら休職する条件で
ソニーに入社

奥田 写真のテーマは決めておられるのですか。

出井 動物と子どもが多いですね。

奥田 動物でお好きなのは?

出井 猫。

奥田 一貫して?

出井 そうですね。猫は人の言うことを聞かないじゃないですか。あれが好きなんですよ。犬だったら呼んだらすぐ来るけど、あれはイヤだなと(笑)。

奥田 社長をされていたときに、好きな社員はどんなタイプでしたか。

出井 きちんと文句を言う人ですね。ちゃんと反対意見を言ってくれる人が好きでした。

奥田 でも、言われた瞬間、ムッとするものではありませんか。

出井 いや、それはありません。僕はソニーに入社してからずっと、自分の判断基準を、自分にとってではなくソニーにとって何が一番いいかというところに置いていたんです。ただし、そうすると上司と意見が食い違うことも出てきます。それでも、はっきり発言するということをポリシーにしていたのです。

奥田 上に立ったとき、下にもそれを求めると……。

出井 そうです。ただ、若い頃はそのポリシーを貫いたことで何回もコースを外れてしまうことがありました。でも、上司と違う意見を言って外されるのは当然で、そこでがっかりしないというのも僕のポリシーだったんです。

奥田 それは意外です。ソニーでは常にエリート街道を歩んでこられたのだと思っていました。

出井 僕は日向(ひなた)しか歩いたことがないとよく誤解されるのですが、現実はだいぶ違っていました。だから、昇進も遅かったですね。。

奥田 ところで、ヨーロッパへの留学には、どんな経緯があったのですか。

出井 実はソニーに入るときに、1年経ったら休職させてくれと条件付きで入社したんです。なぜかというと、早稲田の学部を出たくらいじゃ務まらないんじゃないかと思ったからです。

 「この会社で世界を相手に仕事をするためには、どれくらいのレベルが必要なのかをまず知り、1年経ったらそのための勉強をヨーロッパでしたいので休職させてください。親父からお金を借りて留学しますから」と、井深大さんや盛田昭夫さんに申し出て、それを受け入れていただきました。ソニーもまだ小さい会社でしたから、ヨーロッパに勉強に行きたいという珍しい奴が来たなという感じでOKしていただいたのだと思います。

奥田 ヨーロッパのどちらに行かれたのですか。

出井 スイスのジュネーブ国際・開発研究大学院でドイツ人のウィリヘルム・レプケという高名な経済学者に師事しました。レプケ先生はヒトラー政権に反対してドイツを追われた経験を持つ方ですが、自由主義でも集産主義(ファシズムや共産主義など)でもない第三の道という考え方に大きな影響を受けました。僕の個人的なグローバリゼーションは、この休職してヨーロッパに留学した2年間で相当に養われたと思います。

奥田 やはり学者肌なのですね。

出井 そういえば、経営学者のピーター・ドラッカーもレプケ教授の弟子でした。このオフィスにも本がたくさんありますが、基本的には勉強好きですよ。

奥田 知識欲は衰えませんね。

出井 親父の影響もありますが、僕は会社にもエコノミストが必要だと思い、ソニーに入社したわけです。社長になるなどとは思わず、エコノミストを目指していました。(つづく)

ニコンのフィルムカメラ

 早大写真部時代に使っていたものとソニー時代に当時の社長からいただいたもの。シリアルナンバーの1122は、出井さんの誕生日だそうだ。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第252回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。