文化大革命に翻弄された少年時代 伝統工芸への道を見いだす――第250回(上)

千人回峰(対談連載)

2020/01/20 00:00

王 超鷹

王 超鷹

PAOSNET(上海) 首席代表

構成・文/小林茂樹
撮影/松嶋優子

週刊BCN 2020年1月20日付 vol.1809掲載

 今回、王さんと対談するにあたり、資料に目を通していると、「あれっ、この本は?」という著作のタイトルに行き当たった。自宅の書棚を探してみると『トンパ文字』の本が確かにある。すごい偶然だ。この話を王さんにしたら、専門性が高いゆえ、出版社から「もし、売れなかったら原稿料はなし」という条件で出版にこぎつけた本だという。結果として「大学院1年間の授業料相当」の原稿料を手にする。努力が報われることで、次の一歩が踏み出せた。とても大事な仕事だったのだと改めて思う。(本紙主幹・奥田喜久男)

2019.10.18/東京都千代田区のカフェ・アマルフィーにて

祖母が救ってくれた小さな命

奥田 王さんは中国伝統工芸の第一人者であるとともに、上場企業のCIやロゴデザインも数多く手掛けてこられました。今日は、ここに至るまでのお話をうかがいたいのですが、王さんはどんな幼少期を過ごされたのですか。

 私は、1958年に上海で生まれたのですが、父は中国共産党の高級スパイでした。共産党員でありながら国民党に入り、国民党の中佐の地位まで登り詰めたんです。母も大企業の総経理と社会的地位が高く、幼い頃は裕福でした。

奥田 エリート一家だったのですね。

 ところが、幸せだったのは私が9歳になるまででした。文化大革命が始まったのは66年ですが、私の家に紅衛兵が踏み込んで、すべてを破壊していったのはその翌年、67年のことです。

奥田 エリートや知的な職業の人ほど、文化大革命でたいへんな目に遭われました。

 そうですね。でもそんな中で、私にとって母方の祖母は守り神のような存在でした。私が母のお腹にいたとき、母は全身麻酔の大手術を受けたのですが、このとき医師は「この子は手術中に亡くなるか重い障害を負うことになるから産まないほうがいい」と父母を説得したんです。

奥田 全身麻酔のために……。

 そうです。でも、その話を聞いた祖母は猛烈に怒ったんです。絶対に子どもを守れと。医師の説明を聞いても、祖母は「うちの子だから、あなたには関係ないでしょう。生まれたら私が一生面倒を見るから」と。

奥田 でも、元気に生まれてきた、と。

 なんとか生まれたものの、4歳まで言葉を話すことができなかったんです。出生時はわずか2キログラムくらいしかなく、とても病弱だったんですね。だから、同居していた祖母は一生懸命私のことを守ってくれたんです。

奥田 おばあさんは、もともとどんな方だったのですか。

 南京出身のお金持ちのお嬢様だったということです。祖父も南京出身で上海に出てきて商売に成功し、商工会議所の会頭にまでなった人です。ところが、共産党が政権を樹立した49年、人民解放軍が上海に入ってきて、最初に処刑した47人の有名人のうちの1人が私の祖父だったのです。

奥田 おばあさんも、たいへんな経験をされたのですね。

 実は祖父が成功していた頃、第二夫人、第三夫人がいたようで、それに我慢ならない祖母は家出し、自分だけの力で母を育て上げたのです。そして、その後、文革で私の家がやられたとき、私は初めて祖母のすごさを感じました。

遺跡発掘の現場で古代文字の面白さに目覚める

奥田 それは、どんなすごさですか。

 家をめちゃめちゃにされ、祖母は、早くここを離れないとみんな殺されてしまうと感じていました。そこで、ある日の晩、私と2人の姉を連れ、電車に乗って故郷の南京に逃げたのです。

 その村に着くと、村の人が全員で出迎えてくれ、毎日、どこかの家族が私たちにご馳走してくれるのです。物や食料の足りない時代、どうしてこんなに接待してくれるのだろうと私は不思議に思いました。

奥田 その理由は分かったのですか。

 なぜこんなに大事にしてくれるのだろうかと聞いても、祖母はなかなか教えてくれませんでした。母の話では、49年に共産党が上海に入る前、祖父が妻子に何か残しておきたいと、南京に持つ広大な土地の権利書を託したというのです。広さ36万平方メートルの田んぼです。祖父は、このくらいあれば2人は絶対生きていけるだろうと考えたようですが、祖母はその土地を全部近隣の人々に分け与えてしまいました。

奥田 それはどうして?

 自分がたくさんの物を持っていても意味がないから分け与えたと。この話を聞いてから、文革中に一家で南京に逃げたとき、そこで村の人たちがよくしてくれた理由が分かったのです。もし、文革のときまで祖母がその土地を持ち続けていたら、むしろ危険だったかもしれません。

奥田 王さんに、そうしたおばあさんの考え方は影響しているのですか。

 そうですね。周りの人の暮らしがよくなれば、自分も貧乏にならない。これが一つですね。

奥田 まさに本質ですね。

 もう一つは、自分に力があるうちになるべく人を助けてあげたいという気持ちです。だから、ビジネスが下手だとよくいわれるのですが(笑)

奥田 そんなにたいへんな少年時代を過ごした王さんですが、なぜ伝統工芸士の道に進まれたのですか。

 この文化大革命のときに祖母と一緒に南京の田舎に逃げたことが、私の人生にとって大きな転換をもたらしたのです。

 当時、その村でダムの造成工事が行われているとき、春秋戦国時代の遺跡が出土しました。考古学者が発掘調査をするのですが、そのとき9歳の私は、出土した青銅器に刻まれている文字を紙に写し始めたんです。それを見た周りの考古学者たちは、そんな私を可愛がってくれて、みんな親切に古代文字のことを教えてくれました。いちばん感動したのは、ある女性の考古学者が新聞紙の白い紙の部分を使って、小さなノートをつくってくれたことでした。私にとっての古代文字の勉強は、そこから始まったのです。

奥田 発掘調査は近くでやっていたのですか。

 はい、近所でしたから、毎日遊びに行きました。その後、発掘調査が終わって考古学者はみんな引き揚げるのですが、この村には私の遠い親戚で私塾の先生をしているおじいさんがいました。その先生は「勉強が好きなら、うちにおいで」と言ってくれたのです。でも、文革の時代では勉強は罪だから、このことを口外してはならないと。

奥田 そこで何を学んだのですか。

 古代文化です。漢詩、古文書、歴史など、ここでいろいろと教わりました。私がこの南京の農村に行ってほぼ3年半、13歳のときに鄧小平が復活しました。それにより、まず教育がいちばん大事ということになり、学校教育もすべて復活したんです。それで上海に戻り、中学校に入ると、もうテストばかり。「勉強が罪」から「もっと勉強しなさい」という政策転換が行われたわけです。

奥田 子どもたちも、時代に翻弄されたのですね。

 そうですね。でも、私は中学校でのテストで、いきなり全教科一位をとりました。「田舎から来た子が一位なんて」とみんな驚いたのですが、南京の村で学んだことがその結果につながったのだと思います。こうしたことがきっかけになり、伝統工芸士への道が開かれたのです。(つづく)

王さんの宝物の書籍

 上の写真は、少年時代に農村の私塾の先生からもらった絵の手本、唐代詩集、篆刻の本。印の言葉の意味は「十年読書できず悔しい」だそうだ。下の写真は、武蔵野美術大学学長の水尾博先生から卒業論文最優秀賞とともに贈られた本。その後、偶然とはいえ王さんは「原弘賞」を獲得した。王さんは「学長に一生の感謝です」と当時を振り返る。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第250回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

王 超鷹

(Wang Chaoying)
 1958年、中国上海市生まれ。72年、上海工芸美術公司入社以来、伝統工芸や美術、文字造形に関する研究活動を続け、各界から高い評価を得ている。上海大学文学部卒業後、日本に留学し、武蔵野美術大学大学院で造形学修士号を取得。また、中国市場におけるCI戦略やブランドデザインの構築を実践し、独自の理論体系を築いた。著書に『トンパ文字』『篆刻文字』シリーズ(マール社)などがある。