勉強したい一心で日本に留学 中国市場に新たなデザインの風を呼び込む――第250回(下)

千人回峰(対談連載)

2020/01/24 00:00

王 超鷹

王 超鷹

PAOSNET(上海) 首席代表

構成・文/小林茂樹
撮影/松嶋優子

週刊BCN 2020年1月27日付 vol.1810掲載

 王さんは1987年に来日し、90年に武蔵野美術大学の大学院に進む。後に妻となる恋人の馬放南さんも東京工芸大学に合格する。それぞれ学費は年間150万円ほど。かなり大きな負担だ。でも、親代わりの保証人がお金を貸すからといっても、借金を嫌う王さんは考えた末、「一日だけ待ってください」と。翌朝、ソフト開発会社からフォント開発の仕事が舞い込む。開発費は600万円。ちょうど2人の2年分の学費にあたる。「神様はいつも見ているのだと思った」と王さん。努力が運を引き寄せるのかもしれない。(本紙主幹・奥田喜久男)

2019.10.18/東京都千代田区のカフェ・アマルフィーにて

最年少で中国全国美術展に入選!

奥田 上海の中学校のテストで一番をとったことが、どうして伝統工芸士の道につながるのですか。

 72年に米国のニクソン大統領が中国を訪問しますが、当時の周恩来首相がニクソンを連れて行ったのが、後に私が勤めることになる上海工芸美術公司でした。ニクソンがその伝統工芸を見て高く評価したことから、それが外貨獲得のチャンスと捉えられたのです。しかし、実際には人材不足であるため、周恩来は上海市内の学校で伝統工芸士のテストをするよう指示し、50人の子どもが選抜され、私はその1人に選ばれたのです。

奥田 なるほど、成績優秀だったからそのテストも受けさせられたと…。

 72年に上海工芸美術公司に入社し、78年、20歳のときに最年少で国家認定の伝統工芸士になりました。その後、私は82年に上海大学文学部に入るのですが、一緒に選ばれた50人のうち、現在6人が人間国宝に認定されています。

奥田 若いときから、相当に高い実力を発揮されていたのですね。

 77年に私は19歳で中国全国美術展に入選しました。いまも破られていない最年少記録です。中国全国美術展は、日本の日展や院展にあたるものですが、日本に留学する前に8回入選しています。

奥田 それはすごい。最初に入選したのはどんな作品ですか。

 すごく写実性のある精密画です。タイトルは「勉強したいだけ」。当時恋人だった私の妻(写真家の馬放南さん)をモデルにして、女性が公園の中で一生懸命勉強している姿を描きました。ちょうど文化大革命が終わったところで、妻とともに本当に心から勉強しようと思ったんです。

奥田 それで、その後、日本への留学を思い立つのですか。

 上海大学の文学部を卒業して、もう一度美術の勉強を本格的にするため大学院に進もうと思ったら、25歳までという入学年齢の制限にかかってしまいました。文化大革命があったため大学を卒業したのが28歳だったのです。日本やドイツ、米国などにはそういう年齢制限がないため、私は米国と日本の両方に願書を出しました。そして、日本のほうが早く返事が来たため、私はすぐに日本語学校に入るため来日したのです。そこで、保証人や学費の問題をクリアして、私は武蔵野美術大学(武蔵美)の大学院に進みました。

奥田 大学院では何を勉強していたのですか。

 グラフィックデザインです。専攻としては造形学の視覚伝達デザインですね。実は、最初は武蔵美の学部に入ったのですが、簡単に言えば一度学校に追い出されそうになりました。

奥田 どういうこと?

 指揮者のカラヤンが日本を訪問するのでポスターをつくりなさいという課題が出たのですが、なぜか私にだけ発表の機会が与えられませんでした。すると「君はデザインのことが全然分かっていないから、今日、学校をやめたほうがいいよ」と。

奥田 いきなり、びっくりしますね。

 「あなたは絵描きとしてはとても優れている。でも、こんな上手な作品を見たらクラスメートの勉強する気がなくなってしまう。それに、他人が見てどういうふうに感じるかと考えない限り、デザインの勉強を続けてもしかたない」と。だから、学部生ではなく研修生という形で在籍し、勉強の内容は自分で考えて、来年、直接大学院に入りなさいと言われたのです。

 武蔵美では、どの専攻の先生も親切に私を受け入れてくれて、この1年はすごく勉強になりました。そこで分かったことは、大学院で勉強するのは、実技ではなく考え方であるということでした。
 

企業のロゴマークは思想の凝縮だ

奥田 王さんはその後、日本のデザイン事務所PAOSの上海拠点を任せられ、CI戦略やロゴマークの制作に携わりますね。日本人にも分かる代表的なお仕事を紹介していただけますか。

 私は上場企業だけで53社のロゴマークをつくりましたが、日本の方になじみがあるといえば、例えばキリンビールですね。日本での「KIRIN」というローマ字のロゴは私が勤めていたPAOSのデザインで、漢字二文字で「麒麟」というのは私のデザインです。それから同じビールですが、サントリーの中国での表記は私が提案したんです。中国ではサントリーの発音に近い漢字にしようということで、「三得利」と。輸入品のサントリービールは国産ビールよりずっと高価なため、ビジネス用のビールとして使ってもらおうと考え、そこでネーミングは「関係する三者とも利益が出るよ」という意味にしたのです。

奥田 なるほど、“三方よし”か。

 そう、三方よしで大成功したんです。あとはダイキンのブランド戦略ですね。中国でのダイキンは業務用エアコンでスタートしたのですが、今度はルームエアコンを売りたいがどうすればいいかと。そこで、私は業務用エアコンの堅いイメージを払拭し、ルームエアコンの柔らかいイメージを想起させるために、あるネーミングを提案しました。

奥田 どんなネーミングですか。

 中国語で「風霊」。“賢い風”という意味です。店頭でこのネーミングのエアコンを見たお客さんは「なぜ、風が賢いの?」と聞くはずです。その瞬間、店員さんは「ダイキンの賢さは五つあります」と説明できるのですね。

奥田 なるほど。店員が売り込む前にお客のほうが聞いてくると。

 ただ日本人にとって「霊」の字には拒絶反応がありますから、最初はすごく反対されたんです。「霊」には「賢い」とか「かわいい」という意味があり、中国人スタッフにはとても評判がいい。そこで、中国国内にあるダイキンの代理店100店舗の店長さんに、10個のネーミングを示して、いちばんいいものをチェックしてくださいと頼んだのです。その結果、100人中98人が「風霊」をチェックしました。それが日本のダイキン上層部を納得させるカギになったのです。

奥田 中国企業のロゴマークでは、どんなものを手掛けられましたか。

 有名なところではアリババの「淘宝網」ですね。依頼されて約2カ月、アリババの創業者であるジャック・マーさんが納得してくれるまでだいぶ苦労しました。ここで大事なことは、ビジネスの内容を真に理解した上で、理念や考え方を一緒につくり上げていくということでした。私は「ロゴマークは思想の凝縮」と思っていますから。

奥田 なるほど、思想の凝縮ですか。いい言葉ですね。これからもますますのご活躍を期待しています。

こぼれ話

 王超鷹さんにインタビューしながら、私は18歳の頃に出会った分厚い疑問の壁を思い出した。伊勢神宮には式年遷宮がある。20年ごとに今のお社がそっくりそのまま建て替わる儀式だ。そのため、現在の内宮と外宮のお社が建つ隣には、同じ広さの敷地がある。この敷地のことを古殿地(こでんち)あるいは新御敷地(しんみしきち)という。新御敷地には次の新しいお社が建つ。お社は神の住まいだ。20年の節目で神は隣に建つ新居に移り住む。この神の移動の儀式を遷宮という。

 直近では2013年10月に62回目の遷宮が行われた。最初の遷宮は西暦690年(持統天皇4年)だ。現在に至るまでの間、同じことが繰り返されている。お社の建て替えだけではない。神が生活するための道具一式もすべて新しく作り替える。それも当時の品と同じものを新たに作っている。“当時”とは持統天皇の時代なのだ。どんな意味があるのか。同一の品を20年ごとに作り続けることで素材と技術が1300年もの間、継続しているわけだ。そこにどんな価値があるのだろうか。このことに疑問を持ったまま社会人になり、コンピューター担当の専門紙記者となった。

 王さんの話からは工芸品を作り続けることに携わる誇りが伝わってくる。創作物の根元は思想である。思想から作品は生まれる。言い換えると、根元を持つものとそうでないものがある。淘宝網、風霊、三得利。これらは中国のスーパーロゴだ。王さんはいう。思想から生まれたものは生き続ける、と。思想が作品の命だとしたら、1300年間継続して作り続られている作品には、命である“思想”も継承されていることになる。中国の4000年前の工芸品は今も思想を伝え続けている。王さんはその一人である。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第250回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

王 超鷹

(Wang Chaoying)
 1958年、中国上海市生まれ。72年、上海工芸美術公司入社以来、伝統工芸や美術、文字造形に関する研究活動を続け、各界から高い評価を得ている。上海大学文学部卒業後、日本に留学し、武蔵野美術大学大学院で造形学修士号を取得。また、中国市場におけるCI戦略やブランドデザインの構築を実践し、独自の理論体系を築いた。著書に『トンパ文字』『篆刻文字』シリーズ(マール社)などがある。