武藤さんとお話ししていると、学究肌の物腰の柔らかい経営者というイメージを抱く。でも経歴を伺っているうちに、波乱に富んだ半生だったことがわかってきた。造船工学を学んだのにCM制作現場でADの仕事をしたり、倒産会社を再建するため債権回収に奔走したりと、普通の人があまり経験しないようなことを体験しているのだ。そして、いまでも3か月に1回はアメリカに飛んで、展示会などで情報収集をするタフネスぶりを発揮する。まさにいま、経営者として脂の乗り切った時期なのだろう。
(本紙主幹・奥田喜久男)

2020.3.5/東京都千代田区のアスク本社にて

金融危機がらみの倒産から独立起業

奥田 武藤さんが代表を務めるアスクは1997年12月の創業ですが、まずその設立のいきさつを教えていただけますか。

武藤 実は、アスクを設立する前、私はビックサイエンスというメモリや周辺機器を取り扱う会社の役員を務めていました。当時の競合は、バッファローやアイ・オー・データ機器といった周辺機器メーカーですね。ところが97年8月に、バブル崩壊後の金融危機のあおりで、この会社は倒産してしまったんです。

 一時は自主再建を目指しましたがそれもかなわず、現在、役員を務めている当時の部下4人とともにアスクを立ち上げました。

奥田 アスクは、さまざまな周辺機器を海外から輸入しておられますが、最初からそうしたビジネススタイルなのですか。

武藤 そうですね。最初からグローバルに仕入れを行っていますが、創業当時はアメリカからの輸入がほとんどでした。

奥田 武藤さんは、もともと周辺機器関連の世界にいらしたのですか。

武藤 私の原点は、電子部品商社のハミルトン・アブネットの日本法人(現・アブネット)で半導体ビジネスに携わったことです。そうした経緯もあり、いまでも半導体には常に注視しています。私たちが取り扱うPCパーツのほとんどが、半導体からできているわけですから。

奥田 なるほど。ところで、外資系企業ではすべて英語でのビジネスですか。

武藤 そうですね。社内の日常的なやりとりは日本語でしたが、米国本社とのやり取りやドキュメントはすべて英語で書かれていますから、勉強するしかありませんでした。

奥田 英語やコンピューターには、学生時代からなじみがあったのですか。

武藤 英語が特にできるわけではありませんでしたし、コンピューターに初めてふれたのも横浜国立大学に入ってからです。

奥田 当時、大学にあったのはどんなコンピューターですか。

武藤 学生時代に大学にあったのはHPのミニコンです。私は船舶海洋工学科(入学時造船工学科)を卒業したのですが、卒業論文のテーマが「不規則波」で、高速フーリエ変換のデータ解析のため、東大の電子計算センターに紙テープを電送していました。それから、研究室にApple Ⅱが入ったときのことはよく覚えています。「これはすごい!」と思いましたね。

造船工学から半導体の世界に

奥田 造船工学科に進まれた理由は?

武藤 大きな建造物はどうやってつくるのだろうという疑問と、つくってみたいという気持ちからですね。

 いまはみなとみらいのエリアとなっている、三菱重工の横浜造船所で溶接の実習もしました。実習は面白かったのですが、真夏の労働環境は劣悪でしたね。ただ、設計などに携わる人たちにとっても、実際の作業現場を知ることはとても大切だと思いました。そんなこともあり、いま、常に取引を行っているサプライヤーが100社ほどあるのですが、私は、そのすべての会社を訪問しています。オフィスを訪れることはもちろんのこと、なるべく工場視察にも行くようにしているのです。

奥田 なるほど、当時の経験がいまの仕事に生きていると。やはり現場を実際に見て、把握することが大切だということですね。

 ところで、造船という大きなものを学んだにもかかわらず、物理的にはとても小さな半導体の世界に進まれたのはなぜですか。

武藤 オイルショック後ということもあり、私が大学で学んでいる頃から、新規の造船需要が低下していることはわかっていました。いわゆる造船不況です。そのため造船会社の求人募集はまったくなく、当時、造船工学科を出た学生の多くは自動車会社などに就職していきました。

 でも私は、そうした道に進みたくなかったので、おじのやっている仕事の手伝いをすることにしたのです。

奥田 それはどんな仕事ですか。

武藤 コマーシャルフィルム制作の仕事です。そこで、アシスタントディレクター(AD)のようなことをやっていました。

奥田 それはまた、ずいぶん毛色の違うお仕事ですね。

武藤 おじは、資生堂のキャンペーンCMなどを請け負っていて、私はモデルさんを車で送り迎えするなど、いろいろな手伝いをしましたね。あるとき、おじから「事務所に所属しているモデルでは面白くないから、渋谷の街でモデルになれそうな子を探してこい」などと無理難題を吹っかけられたこともありました(笑)。

奥田 でも、結果的にその道には進まなかった、と。

武藤 面白い仕事でしたが、「おまえには才能がないから、ほかの仕事を探せ」と、おじから言われてしまったんです。

奥田 それで、コンピューターの道へ?

武藤 大学時代に初めてミニコンを使い、Macを見たときから、コンピューター業界はこれから発展していくだろうと考えていました。

奥田 当時、プログラミングにのめり込んだりはしなかったのですか。

武藤 のめり込みはしませんでしたが、一時期、アセンブラをやりました。

奥田 それは授業で学んだのですか。

武藤 いいえ、独学です。いまはほとんど忘れてしまいましたが。

奥田 どんな目的でアセンブラを?

武藤 どうやってコンピューターが動くのかを知ろうと思ったからです。

奥田 やはり武藤さんは、理系的なものの考え方をされるのですね。アスクのウェブサイトも整然としていてとても見やすいと思いましたが、そうしたことも影響しているのでしょうか。

武藤 ことさら意識したことはありませんが、そう言っていただけるとうれしいですね。

 まさにパソコンが世の中に普及し始める時期でしたが、そんな経緯で外資系の電子部品商社に飛び込んでいったことが、いまの仕事に至るスタートとなったのです。(つづく)

これまでに訪れた展示会の名札パス

 武藤さんが、かつてのCOMDEXやCESをはじめとする展示会に参加したときの名札パス。国内外を問わず、出展者として、またビジターとして会場を訪れたときのもののほんの一部だそうだ。「記憶に残そうと思って捨てないでおいた」と武藤さんは言うが、このパスケースの山は会社に大きな資産をもたらしたに違いない。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第257回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。