【横浜発】私が堀源太郎さん、通称“ホリゲンさん”とはじめて出会ったのは1994年のことだから、もう四半世紀以上のおつき合いになる。実は、ホリゲンさんは、6月29日号、7月6日号に登場していただいた岩崎元郎さん主宰の無名山塾の同期入塾生。私の山の仲間なのである。一緒にカリフォルニアのヨセミテ国立公園をめぐったとき、レンタカーに一人のヒッチハイカーを乗せたことがあった。よくよく聞いてみると、その人は刑務所を出所したばかりとのこと。一瞬肝を冷やしたが、「飛行機でも隣の客は選べないんですよ」とホリゲンさん。ヒッチハイクの達人は事もなげに呟くのだった。(本紙主幹・奥田喜久男)

2020.5.21/横浜市神奈川区のご自宅にて

横浜から大阪まで3週間かけて歩き通す

奥田 堀さんは、現在、登山ガイドや町歩きの指南をされ、旅行作家としての顔ももっておられますが、ここに至るまでにはいろいろな挑戦をしてこられたのですね。たとえば「飛行機を使わない世界一周の旅」とか。

 そうですね。そんなことをしようと思った最初のきっかけは、大学3年生のときに東海道をたどって大阪まで歩いて行き、その後はヒッチハイクで、四国、九州、山陽地方を回って、横浜に戻ってくるという旅を経験したことにあります。

奥田 大阪まで歩く?

 ええ、歩きで3週間ですね。

奥田 いくら若いとはいえ、それはすごい! 大阪から先は全部ヒッチハイクで?

 船以外はすべてヒッチハイクです。8月1日に出発して大阪まで歩き、その後2週間で地元横浜まで戻ってきました。トータル5週間ですね。とても暑い時期でしたが、このとき私は旅の楽しさに目覚めてしまったわけです。

奥田 でも、どうしてそんな苦行をしようと思ったのですか。

 大学でろくに勉強をしてこなかったので、何かを成し遂げなければならないと思ったんですね。

奥田 それで東海道を歩こうと……。でも、不安はありませんでしたか。

 もちろん、家を出る時は不安でしたよ。東海道を歩き始めて、最初に泊めてもらおうとお願いしたのが藤沢の遊行寺(ゆぎょうじ)でした。遊行寺は時宗の総本山で、その名のとおり全国を行脚する遊行僧がいるお寺です。だから、訪れた旅人を無条件に泊めてあげるといった慣習があったようです。そのためすぐにOKが出たのですが、もしここで断られていたら気持ちが萎えてしまい、そばを走る東海道線に乗って、この横浜の家に引き返していたかもしれない。もしそうだったら、いまのような人生を歩んでいなかった可能性が高いですね。

奥田 なるほど。いまの堀さんがあるのも遊行寺のおかげということですね。その5週間の旅で、何か心に変化はありましたか。

 見ず知らずの人に泊めてくれるよう頼むということには、やはり勇気がいります。ヒッチハイクも同じですが、最初は「断られたらどうしよう」と考えてしまうのですが、旅を続けているうちにだんだん気持ちが強くなっていったように思いますね。

奥田 どんなところに泊めてもらったのですか。

 ユースホステルに泊まることもあれば、お寺や天理教の教会などに泊めてもらうことも多かったですね。それから、ヒッチハイクでクルマに乗せてもらった方の家に泊めてもらったこともありました。

 もちろん断られることもありますが、お寺や教会には施しの習慣があり、食事や布団を提供してくれたり、お弁当まで持たせてくれるところもありました。その後、海外に出てしみじみ感じたのは、日本は一番のヒッチハイク天国だということ。みんな人柄がやさしいですから。

奥田 それでこの旅が、世界に飛び立つための伏線になったと。

 はい、これがすべての原点です。もっと大きなスケールで、こういう旅を続けてやろうと考えるようになりました。

1年で帰る予定が4年にロンドンをベースに世界一周を達成

奥田 そもそも「飛行機を使わないで世界一周」というのは、どういうことなのですか。

 船とバスや鉄道などの陸上交通機関だけを利用して、世界一周をしようということです。大学を卒業した1967年3月1日に出発し、1年間で日本に戻る予定でしたが、結果的に4年間かかってしまい、71年4月2日に横浜港に戻りました。

奥田 67年というと、堀さんのような旅人にとってどんな時代でしたか。

 海外旅行が自由化されたのが64年ですから、世界に飛び出して何かしてやろうという若者が増えた時期ですね。そのためビザの審査が厳格で、アメリカ大使館で旅行者であることを証明するために船やホテルのチケットを見せて、面接を受ける必要がありました。

奥田 その4年間で、どんな町をめぐりましたか。

 横浜港を出発して、ホノルル、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューオリンズ、ワシントンDC、ニューヨーク、そこから船でイギリスに渡り、ロンドン、スコットランド、そしてまたロンドンに戻ってきたんです。

 あるとき、ロンドンのユースホステルで他の日本人旅行者と話をしていると、フロントから「日本人なら誰でもいいから電話に出てくれないか」と。何事かと思い私が出てみると、1日だけ自分の仕事を代わってやってくれないかという現地で暮らす日本人からの依頼でした。このとき「こんな働き方もできるんだ」と思い、都合3年、貧乏旅行をしながらロンドンをベースにして暮らしました。ヒッチハイクもずいぶんしましたね。

奥田 ロンドンに住みついて、世界一周はできたのですか。

 できました。ロンドンに住んでいるときにヨーロッパ中を回り、その後、ギリシャまでオリエント・エクスプレスで行き、トルコ、アフガニスタン、パキスタン、インド、ベンガル湾を船で渡ってマレーシアのペナン、南下してシンガポール、そして船に乗り、香港経由で横浜港に戻りました。

奥田 出発点の横浜に戻ったと。おお、本当に世界一周できている! それだけの経験をしたら、すごい自信がついたでしょう。

 たしかにそれはありましたが、日本に戻って否応ない現実にも直面しました。いまだに日本の大企業は新卒採用が中心ですが、当時、私のように道を外れた者にとって仕事を見つけることは容易ではなかったのです。

奥田 70年代ですから、そういう面ではいまよりも厳しいですね。

 そうですね。それで、ロンドンに滞在していた最後の1年間、世界最古の旅行会社といわれるトーマス・クックに勤めていたのですが、たまたま頼まれて日本人ツアーのアテンドをしたことがきっかけで、思いがけず二つの大切なものを手に入れたのです。

奥田 大切なものといえば仕事ですか。もう一つはなんだろう?(つづく)

サグラダ・ファミリアの“かけら”

 1990年にスペイン・バルセロナを訪れた際にもらったもの。サグラダ・ファミリア教会の西側にある「受難のファサード」を支える外側の柱の一部だそうだ。柱はその材料である花崗岩を叩いて成型するが、工事用の塀の隙間から落ちたかけらが見えたため、それを拾おうと堀さんが手を伸ばしているとき、危ないと思ったのか石工の人が降りてきて地面に散らばったかけらを集めて手渡してくれたということだ。ガウディの作品の一部を持っているようで、ちょっとうらやましい。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第263回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。