【伊勢市発】年に4回、神宮を有する伊勢の地から雑誌が届く。誌名は『NAGI』。漢字は“凪”だ。毎号、伊勢を核に三重県内の硬軟交えたテーマと丁寧な取材は、実に読み応えがある。今春届いた最新号をふと見ると、創刊20周年に寄せた創業者の一文があった。1つのメディアを20年継続することが、いかに困難で壮絶かは身をもって知っている。「ずっと低空飛行だったから、20年飛び続けられた」と綴る創業者に、どうしても会いたくて伊勢に向かった。(本紙主幹・奥田喜久男)

長年勤めた出版社を自主リストラ30代半ばで熊野古道を歩く

奥田 まずは20周年おめでとうございます。僕は何年も前からこの『NAGI』を定期購読していて、捨てられない雑誌ですね。

吉川 ありがとうございます。

奥田 それが今年の春号が届いたら、表紙に創刊20周年記念号とある。吉川さんが20年を振り返るページを読んでいたらどうしても話を聴きたくなりまして、今日うかがった次第です。

吉川 わざわざ伊勢までお運びいただいて恐縮です。

奥田 まずは会社の名前からうかがってもいいですか。月に兎と書いて月兎舎。読みは“げっとしゃ”ですよね。

吉川 読みはそうなんですが、法人ではなくて個人、いわゆる吉川商店なんです。

奥田 え? 会社組織じゃないんですか。 

吉川 はい。『NAGI』を出版する時に、出版社名がないと本屋さんが困るよねということでつけました。

奥田 吉川さんのところは、個人で書店やクライアントと取引されているんですか。

吉川 はい。特に支障なくやってこられたので、法人化に至りませんでした。今も税理士も入れずに取材・編集・制作・販売から確定申告まで手がけています。

奥田 そうでしたか。伊勢だからできたんでしょうかね。ちょっとご自身のことをうかがわせてください。お生まれは?

吉川 伊勢市内です。大湊という伊勢湾岸の港町に保育園から高校までいて、愛知県の大学に進学しました。

奥田 学部はどちら?

吉川 法経学部です。実は文学部志望だったんですが、受かったのがそこだけだったので(苦笑)。で、卒業後はまた伊勢に戻って印刷所に入社しました。

奥田 名古屋とか東京で働こうとは思わなかったんですか。

吉川 実は東京の印刷会社からも内定をもらっていたんですが、東京で何かを成すという大それた気持ちが全然なくて。親元にいれば生活費がかからないから、好きなオートバイや車に自由にお金が使えていいやと(笑)。

奥田 なるほど。その頃編集をやりたいという気持ちはありましたか。

吉川 もともと本を読むのが好きで、大学では文学研究会というサークルにいました。当時はコピーライターの糸井重里氏とかが世に出てきた頃で、先輩たちもメディア系に就職したりして、自分も何となくその方向を…。たまたまその印刷会社でコピーライターを募集していたので、そこでいいかなと。

奥田 吉川さん、結構成り行きまかせですか。

吉川 そうですね。大学も就職も成り行きです。

奥田 そうは言いながらも、自分の好きなところはきちんと選んでおられる感じがします。

吉川 何か目的ができたら、それに向かって邁進するんです。目的ができれば、そのために何をすればいいかという手段が見えてくるんですが、進学とか就職とかは目的ではなかったんだと思います。

奥田 コピーライターの後はどうされたのですか。

吉川 地元の出版社に転職して7年半ほど編集に携わっていました。でも、自分のやりたい方向と会社の思うところが違うかなと。それで自主リストラしました。

奥田 自主リストラって(笑)。

吉川 はい。辞めさせられるとかではなく、自分で自分をリストラします、と。独立して一人編プロで元の勤務先の下請けをしながら、知人のカメラマンとともに足掛け3年、熊野古道に通い詰めて取材をし、写真集を出したんです。

満を持して発刊したものの売れなかった創刊号


奥田 (写真集を見ながら)『くまのみち』。モノクロなんですね。

吉川 カメラマンも私も仕事としては商業ベースのメディアなので、色やデザインなど何かをプラスすることが多いんです。なので、二人で自由につくるのだったら全ページモノクロで、写真のページは写真だけ、文字のページは文字だけと、徹底的に引き算をしました。

奥田 反響はいかがでしたか。

吉川 これがそこそこ売れたんです。1999年の発行ですが、『熊野古道』が世界遺産に指定される5年前で類書がなかったためか、2000部超が出ました。

奥田 それではずみがついた。

吉川 そうですね。少しお金ができたし、これ一発で終わらせたくないとも考えました。自分たちが思ったことを形にして、持続的に発信をしていく時期かなと思ったんですね。ちょうど世紀の変わりめだったこともあります。

奥田 吉川さんの目的が明確になったわけですね。

吉川 最初は知人2人に声をかけて、それぞれ100万円ずつ出し合って、資金も作業も利益も3等分してはどうかと提案したんです。そうすれば編集室とかつくらなくてもすみますし。

奥田 今のインターネットビジネスがそういうスタイルですよね。

吉川 でも両方からことわられました。一人は「金がない」、もう一人は「勝てない勝負には賭けない」って(苦笑)。

奥田 おやまあ(笑)。

吉川 どうしようかと思っていたら、以前の出版社で後輩だった坂美幸(現編集長)がそこを辞めたと聞いて、誘ったらやるということで……。半年間準備して2000年の6月1日に『NAGI』を創刊しました。

奥田 創刊号のテーマは?

吉川 沢村栄治と西村幸生です。ともに伊勢出身で、それぞれ巨人と阪神のエースでありながら、戦争でその生命を奪われてしまった。二人を描くことで反戦を訴えたかったんです。

奥田 売れましたか。

吉川 いえ。それがさっぱり。沢村と西村の出身地である伊勢以外では売れない、野球がテーマなので女性に売れない、そもそも刷り部数が多すぎた。理由はいろいろです。

奥田 それからは?

吉川 価格を改定したり、テーマを探ったり。試行錯誤しながらも少しずつ配本エリアを拡大して、今は県内全域で販売しています。

奥田 最初は吉川さんが編集長ですが、途中から坂さんに替わりましたね。

吉川 6年目くらいですね。編集も発行も私だといろいろなことが集中してしまうからです。坂を編集長に立てることでそれを分散しようと。また、ローカルには女性のタレントが少ないので、女性編集長は目立ちます。そういうこともあって、彼女に目が向けられればいいかなと。

奥田 坂さんのほかのメンバーは。

吉川 後釜を育てようと何人か入れたんですが、結局定着しなくて、今も二人体制です。なかなか難しいですね。

奥田 社員が入ってきて辞めていく。そのことに慣れるまでには葛藤がありますよね。自分のやりたいことや夢のゴールと、人を育てることの苦労。創業者として僕はすごくわかります。

吉川 思うに私は、経営者タイプではない。どちらかというと番頭タイプです。借金してでも投資して、やる時はやるというのはできません。だから20年続いたといえるし、逆に20年経っても発展していないともいえる。ただ、20年間同じ判型で同じページ数で、1度も発行日を遅らせることなく続けています。

奥田 それはすごい。大したことです。(つづく)
 

月兎舎創立の祝いにいただいた広辞苑第五版

 月兎舎をスタートさせる際、師匠と仰ぐかたから贈られた。現編集長の坂さんが引き継いで見事に使い込んで、背表紙は取れかかり背文字もかなり薄れている。暗中模索して走り続けた21年間を、言葉と知識の面から二人を支えた。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第262回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。