【東京都発】少し昔語りをしよう。多くの人は彼女のことを「チャチャ」と呼ぶ。華やかな交友関係の家庭で育ち、一流の師から日本舞踊、ピアノ、声楽、絵画、華道、茶道、書道とさまざまな芸事を学んだ。日舞にいたっては、4歳のとき、跡取りのいない家元の後継者を約束されるほどだった。裕福な生活に見えるが、心の内側では、継母との間に絶望的な断絶があり、苦しみ抜いてきた。そんな中で、自分を支えていく技術を身に着けた。人生の後半では、思ってもいなかったことにそれらの応用が効いた。あるとき、それぞれの「芸」の形にどうしても必要なものがあることに気づいた。それは「やさしさとか、おもいやりとか、親切とか、愛すること」。行きつくところはすべてそこにあった。(本紙主幹・奥田喜久男)

2020.3.27 /東京都千代田区のカフェ・アマルフィーにて

芸術家たちが集う家で過ごした幼少期

奥田 松本さんの肩書は古典芸術家とうかがっていますが、ジャンルは日本舞踊、ピアノ、茶道、華道と範囲が広いですね。ところで、松本さんとチャチャさん、どちらでお呼びしたら…?

松本 「チャチャ」でお願いします。

奥田 ではチャチャ、現在はどんなことをなさっているのですか?

チャチャ 15年前に中国を訪れて以来、中国人向けに古典芸術の伝道師みたいなことをしています。さまざまな芸事を幼少の頃から嗜んでいたので、思いがけなく役立ちました。また、三十年来の友人、芸術家の王超鷹氏(週刊『BCN』1月20日・27日号の「千人回峰」に登場)が天台で博物館のプロデュースをするとなれば計画段階から手伝い、またある時は紹興の歴史ある書院の演出を頼まれれば手伝うといったことをやっています。

奥田 これまでの経験やスキルの応用が効いたというわけですね。

チャチャ たとえば、お茶にまつわることも聞き手の興味を引くように話します。「お抹茶は宋の時代に生まれました。中国からきて日本で花開いたんですよ。日本人は竹を200~250本くらいに細く削って、茶筅(ちゃせん)の先が丸くなるように改良しました。なぜなら、高価なお茶碗を茶筅で傷つけてはいけないし、先が細ければ細いほど泡立ちが良くて美味しくなるから」というふうに。

奥田 ほう。それは繊細なものづくり技術の一例ですね。ところで、チャチャは芸術家の家庭で育ったのですか?

チャチャ 父は松本幸輝久(さちきく)。読売新聞や中外商業新報(現・日本経済新聞)の記者で、政治ジャーナリストとしても著述したり、後の讀賣テレビ放送の経営者である正力松太郎氏に引っ張られて創設を手伝ったりするような人でした。実母は翻訳家でした。父は奇人変人女好きだったもので、戦前に取材に行った中国で慰問に来ていたオペラ歌手と結婚しちゃったんです。なので、実母とは私が2歳の時に生き別れで。そこから私は継母に育てられました。

奥田 聞屋(ぶんや)と声楽家の家庭ですか。お父様はそうとう健筆をふるった方みたいですね。著書もたくさん残しておられる。

チャチャ 健筆家でしたが破天荒で強引で、家庭はメチャメチャですよ。でも、まわりは楽しかったでしょうね。だから、わが家はまるでサロンでした。

奥田 どんな方々が集まってきたのですか?

チャチャ 池田隼人内閣総理大臣、科学者の糸川秀夫博士、作曲家の米山正夫さんと歌手、水木流日本舞踊家、松竹や東宝の映画監督や俳優、哲学者、翻訳家……。戦後、食べ物もないというのに、うちはサロンと化し、激論が交わされていましたね。糸川博士は、4歳くらいの私をひざに乗せて、NASAがロケットで月に行ったときの石と砂を小瓶に入れて「お土産だよ」って。

ああいう人間にはなりたくない!

奥田 チャチャが一番打ち込んだ芸事は?

チャチャ 日本舞踊は4歳からです。身体が弱かったので、当時うちに出入りしていた作曲家の奥様で水木流の家元に習いました。中学生のときに名取、高校生で最年少師範のお免状をいただきました。ピアノは継母がオペラ歌手だったので手ほどきを受けて、私自身、40年ほどピアノ教師として生計を立てていたのです。絵画や書道は小学生の頃から。雅楽は日本舞踊の後、20歳前後のときに始めました。

奥田 日本舞踊はお好きでしたか?

チャチャ 踊ることは好きでしたが、それはそれは厳しい修練の日々でした。家元は父の親友で、後継ぎがいないからという理由で、4歳から後継者として育てられたのです。

奥田 水木流は、どんな流派なんですか?

チャチャ 元禄時代を流祖としていて、日本初の古典舞踊です。江戸時代には良家の子女の躾・教養のためにと、女師匠の需要があったそうです。

奥田 芸名は何とおっしゃいますか?

チャチャ 師匠が歌橘、私は歌櫻。これは師匠がつけてくださいました。橘と櫻というのは右近の橘、左近の櫻です。

奥田 そうそう、京都御所・紫宸殿にありますね。先生とチャチャは一対という意味で深い関係にある。で、どんなお稽古ですか?

チャチャ 日舞の世界での内弟子というのは、お稽古よりも師匠にお仕えすることが使命のようなものでした。小学校に入ってからはお掃除、お食事の準備などが中心。

奥田 それで成長していくんですね。人の何倍も。

チャチャ そうですね、跡取りになるのだという使命感のもとお稽古に励み、いよいよ高校3年生のとき、歌舞伎座での襲名披露を迎えることになりました。ですが、この世界は襲名するのにどれだけお金がかかるか! 当時で1000万円は軽くかかったのですよ。

奥田 当時で言ったら家3軒分くらいでしょうか。今だと2億円か。

チャチャ そうですね。家元は、私を養子にくれるなら全額出す、でなかったら7:3でと言ってこられました。でも、父はどちらもイヤだと断わってしまって……。

奥田 この一件で、チャチャは日舞の世界から決別したのですね。ところで、ごきょうだいは何人ですか?

チャチャ 5人きょうだいの4番目です。実母は子育てが嫌いだったので、継母が略奪愛をしたのを機に出て行ったのです。だからといって継母が子ども5人も育てられませんから、私だけ父のところに残り、あとのきょうだいたちはちりぢりになりました。

奥田 チャチャだけが残った。運命の分かれ道ですね。

チャチャ 4~5歳の頃から家事のすべてをやらされていました。父はほとんど家にいませんから、継母からの折檻は私にとって心身の傷となりました。30歳で独立するまで、何度も生命を脅かされる思いでした。だから、自信のない、おとなしい子どもでした。ただ、大人のすることをよく見ていました。「ああいう人間にはなりたくない!」と。

奥田 従順だったんですね。

チャチャ そうですね。家元に対しても、継母に対しても、お稽古の先生方に対しても、「もっと気がつく人間になりたい」「もっとできる人間になりたい」という気持ち一筋。とにかく、親から愛されていないと思っていたので、自分から愛そう、許そう、尽くそうと。

奥田 尽くせば気に入られるのではないかと思った。

チャチャ ところがです。実は継母も父も私が日舞の後継者になることは水面下で反対していたのだと後に知るのです。これからは斜陽の分野だからと。だから、音大を受けろと言われました。実力はありましたから特待生で入学が決まりました。しかし、日舞の家元がその事実を知って激怒し、音大の道も破断になってしまい……。襲名披露をする直前でしたから当たり前です。裏切り者扱いをされてしまいました。

奥田 日舞も音大も閉ざされて、つらかったでしょう。それにしても、まるで明治か大正時代の小説にあるような名家のヒロインですね。

新聞で募集を知り雅楽に目覚める

チャチャ 一時は落ち込みましたが、ある日、新聞で民間でも雅楽が習えるという団体「日本雅楽協会」があると知りました。

奥田 雅楽は何が良かったのですか。

チャチャ 音色です。複雑な管弦のハーモニー。1400年前にこの音の構成があったことの感動。雅さとジャズのような近代的なものを持ち合わせているし、篳篥(ひちりき)、笛、太鼓、楽琵琶、楽箏(がくそう)、笙(しょう)など楽器の多様さにも驚きました。お稽古場に行って雅楽の世界にのめり込んだのです。継母に頼み込んで習い始めました。

奥田 さっさと三味線の世界を捨てられたのですね。今度も一流の師に出会いましたか?

チャチャ 最初についてくださった方はダメでした。ですが、ある日、雅楽の重鎮・芝裕泰先生と出会い、ずっと習いたいと思っていた東儀博先生への弟子入りの道筋を開いてくださったのです。

奥田 あの東儀秀樹さんの関係ですか?

チャチャ 違います。東儀博先生は宮内庁式部職楽部、首席楽長でした。あり得ない特別待遇でした。 (つづく)

雅楽の東儀博先生と作った手作りの篳篥(ひちりき)

 不得手な篳篥(ひちりき)について雅楽の恩師・東儀博先生に教えを乞うたところ、それを手作りしようという話になり、教わりながら作ったもの。葦笛は、音色が力強いのになぜか柔らかさが心に染み入る。入れ物はカステラの空き箱を利用して先生が作ってくださった。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第259回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。