国生み神話の里とお社を お守りして30年――第264回(上)

千人回峰(対談連載)

2020/08/07 00:00

本名 孝至

本名 孝至

伊弉諾神宮 宮司

構成・文/浅井美江
撮影/笠間 直

週刊BCN 2020年8月10日付 vol.1837掲載

【淡路島発】取材当日、最寄りのバス停を降りたら本名宮司のお出迎えだ。案内に従って、どっしりとした花崗岩の大鳥居をくぐる。悠々と伸びる参道には玉砂利が敷き詰められ、両側には奉納された石灯籠が美しい対称を成している。もと御陵だったという緑豊かで広大な土地に国生みの神が祀られている伊弉諾神宮。宮司を務める本名さんは、敬愛する大学の先輩にあたる。今回は「先輩」と呼びかけることをご容赦いただければと思う。 (本紙主幹・奥田喜久男)

2020.6.9/淡路島 伊弉諾神宮にて

イザナギが余生をすごされた地とされる由緒ある神社で神職を務める

奥田 先輩、今日はお時間をいただき、本当にありがとうございます。

本名 いやいや、こちらこそ遠くまでお運びいただきまして。

奥田 先ほど、大鳥居からずっと歩いてお参りさせていただきましたが、広い境内ですねえ。

本名 本殿や拝殿など含めて約1万5000坪あります。もともとは伊弉諾(イザナギ)大神が住まわれていた地で、後に御陵(みささぎ)を築いて祀られた神域です。

奥田 先輩はこのお社で30年の間、神職を務めてこられたそうですが、まずはお社の歴史を教えていただけますか。

本名 『古事記』や『日本書紀』の冒頭にも記述が見られる日本最古の神社です。明治の初め頃、神陵を整地して本殿が移築され、現在の形に整いました。地元では、日本で一番目のお社ということで一宮(いっく)さんとも呼ばれています。

奥田 改めての質問で恐縮ですが、伊弉諾大神について教えていただけますでしょうか。

本名 伊弉諾大神は、日本神話のひとつ「国生み神話」に登場される男神です。女神である伊弉冉(イザナミ)大神と共に天の浮橋にお立ちになり、天沼矛(あまのぬぼこ)で地上をかき回すと、矛のしずくが固まって自凝島(おのころじま)が出現。二神はその島に降り立って夫婦となり、ここ淡路島を最初に、日本を構成する数多の島々をお生みになるのです。

奥田 なるほど。

本名 国生みの後に、いろいろな神様が誕生する「神生み」が続くのですが、その一連のお務めを終えられ、至貴(しき)の御子神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)にすべてを委ねられた後、ここに「幽宮(かくりのみや)」を構えて余生を過ごされたとされているわけです。

奥田 非常に由緒あるお社だということがよくわかりました。ありがとうございます。それにしても、どうして淡路島を一番先につくられたのでしょうね。

本名 いくつか条件が挙げられますが、ひとつには日本列島の本州、佐渡ヶ島、隠岐、壱岐、九州、四国、淡路島という範囲で見ると、ここがちょうど真ん中に位置するということ。あとは、淡路島が食糧事情に恵まれ、生活環境が整った島であったということです。

奥田 食糧事情が関係するのですか。

本名 淡路島は古来より「御食つ国(みけつくに)」とも呼ばれ、皇室や朝廷に食物を献上してきました。実は淡路島は水が豊かで、どこを掘っても真水が出るんです。

奥田 えっ、そうなんですか。海に近いから海水が出そうなものですが……。

本名 真水なんですよ。なので、田んぼにたっぷり水が引ける。すなわち米が育ちます。加えて海の幸、山の幸が豊富にとれる。そして気候も温暖。いにしえではそうした条件は、ある意味での理想的な生活圏といえたのだと思います。

奥田 なるほど。食糧が豊かであるというのは、暮らし向きが安定することにつながりますね。

本名 淡路島は玉ねぎでも有名なんですが、それが田んぼで育つってこと、知ってました?

奥田 いや、存じません。

本名 秋に苗床に種をまいて、田んぼに植え替えられて育つんです。田んぼに張られた水が玉ねぎの病害などを防ぐ役目を果たすのだとか。だから米の後にレタスなどを植え、さらに玉ねぎを育てるという三毛作が盛んに行われているんですよ。

奥田 ほう。今に続く豊かな土地なんですね。

神職兼務で15年間関わった重要文化財の保存修理

奥田 ちょっと個人的な話をさせてください。僕が先輩に出会ったのは大学に入った18歳の頃です。

本名 貴方とはいくつ違うんでしたっけ。

奥田 僕は1949年生まれですから、5歳違いです。

本名 ああ、そうでしたか。でも、一緒に卒業してくれたんだよね(笑)。

奥田 はい(笑)。先輩は結局、何年、大学にいらしたのですか。

本名 7年。本当は表裏で8年いたかったんだけどね。

奥田 どうしてそんなに長くいらしたのですか。

本名 そりゃあ、大学が大好きだったからだよ(笑)。

奥田 音楽活動もしておられましたよね。

本名 バンドね。アルバイトだったけど、学生だけじゃなくて地域の方も一緒に活動していました。当時はハワイアンバンドが人気で、バッキー白片さんとかがメインで来て、私たちはサブバンドで。

奥田 どこで演奏していらしたんですか。

本名 鳥羽とか志摩のホテルや旅館。当時はカラオケがなかったので、宴会でカラオケ代わりに演奏するわけです。

奥田 パートは?

本名 ウッドベース。大学に入ってから始めたんだけど、やってよかったです。読めなかった譜面が読めるようになったし、芸能界に関わるいろんな方にも会えたしね。楽しかったですよ。

奥田 で、卒業されて静岡の神社の神職になられたのですよね。

本名 そう。声をかけていただいて。静岡に戻って神部神社・浅間神社・大歳御祖神社(通称 静岡浅間神社)に奉職しました。

奥田 そこでは文化財の修復に関わる仕事をされたとか。

本名 神職になって3年後の1974年の7月7日に台風による「七夕豪雨」があって、社殿の裏手にあたる賎機山(しずはたやま)が山崩れを起こしたんです。

奥田 七夕豪雨は覚えています。静岡は大きな被害を受けましたよね。

本名 静岡浅間神社は、徳川家が造営し、崇敬した駿河国総社でね。「東海の日光」とも呼ばれて、社殿など多くの建造物が国の重要文化財に指定されていました。それが山崩れで倒壊して、修理することになりました。

奥田 修理期間はどのくらいかかったのですか。

本名 第1期から3期までの実に15年間。神職本来のお務めをしながら、保存修理の担当職員として仕事をやらせていただきました。

奥田 それは大変なことでしたね。

本名 いや、実は私、高校時代には建築家になりたいと思っていたので、大変だけど楽しかった。徳川幕府の直轄工事ということで、当時の仕様書とかも全部残っていてね。担当するうちに、それまで読めなかった古文書が読めるようになりました。

奥田 どんな修理だったんですか。

本名 お社自体が総漆塗り極彩色の豪壮華麗な建築物でしたから、漆塗りを中心に、木工、屋根、金具と、実に多岐に渡りました。いろんな業者さんとつき合わせてもらったり、文化庁の担当技官とやりとりしたり。そうそう、第1期が終わった時に新たな文献を発見し、第2期からはこれを反映させて、文献通りに仕様を戻すことになったんですよ。

奥田 なかなか経験できないことですね。

本名 この時に習得した古建築のノウハウや築いた人脈が、あとになっていろんなところですごく役に立っています。実に面白い経験でもあり、人生の大きな転機でもありました。
(つづく)

胸に刻まれたダライ・ラマ法王猊下の言葉

 写真は2007年、神道、仏教、修験道の関係者で設立した「伊勢国際宗教フォーラム」での1枚。この時、猊下(げいか)の「宗教の共通性だけでなく、相違する部分をしっかり理解し合うことが真の平和には不可欠」という言葉に、宮司は深く感銘を受けたという。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第264回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

本名 孝至

(ほんみょう こうし)
 1944年。満州国新京市生まれ。県立静岡高等学校卒。皇學館大学文学部国文学科卒。専攻は上代文学。7年在籍した後、神部神社・浅間神社・大歳御祖神社(通称 静岡浅間神社)に奉職。その後、熱田神宮権禰宜を経て、90年より伊弉諾神宮禰宜。2006年、同神宮宮司となり現在に至る。大学時代は同級生や地元のミュージシャンと組んでバンドを結成。担当はウッドベース。趣味は美酒、料理、旅行、古建築と多彩。