「芸は身を助く」を体現 人生の後半は芸の真髄を生かす――第259回(下)
古典藝術家 松本瑜伽子(チャチャ)
構成・文/高谷治美
撮影/松嶋優子
週刊BCN 2020年6月8日付 vol.1828掲載
【東京都発】一流の師に数々の芸事を学んだチャチャだが、高校3年生のときに日舞の道も音大への進学の道も閉ざされた。20歳になった頃、雅楽の世界を知り、修練を重ねて芸の真髄と精神性を学んだ。30歳の時、家庭の事情で家を追い出されてからは、ピアノのスキルを生かし、子供たち向けの教師を務めて生計を立ててきた。そして60歳、満を持して中国へ。雅楽のルーツを知りたい、古典藝術の伝道師になりたいと考えていたからだ。中国から伝わって日本で醸成されてきた古典藝術を、商品ブランディングや演出の仕事を通じて伝えたいと、ますます意気軒高である。(本紙主幹・奥田喜久男)
すべてを失っても教養は財産となる
奥田 雅楽は、チャチャにとって特別な深いものになりましたね。チャチャ そうですね。雅楽は職業ではなかったのですが、他のどの芸事や趣味をはるかに突き抜けて次元の違うものでした。芸術と真理の追究と言ってもいいくらいでした。
奥田 ただただ惹かれたのですね。一生の学びで手放せないものとなった。ところで、やんごとなき話が続くけれど、芸事で生活するのは大変でしょう?
チャチャ 私が30歳のとき、両親はそれぞれ別の相手を見つけて、父は出て行き、私は継母に追い出されることに。すぐに稼げるものとしてピアノ教師を選び、生計を立てたのです。
奥田 継母の呪縛からは解放されたのですね。
チャチャ はい。軌道に乗るまでは大変でしたが、習いに来る子どもたちは長年辞めず、総勢100人くらいに教えるようになりました。
奥田 チャチャは一流の師たちから芸術のすばらしさを教わってきたから、生徒たちにもそれを継承していこうと思ったのでしょう。
チャチャ ピアノを教えるとき、いつも子どもたちに話していました。人生はいろいろなことがあります。でも、ピアノは一生の友達になってくれるのよ。だから、「本当の気持ち、つらいこと、嬉しいことをみんなピアノに語っていいの」と。ピアノをメインとして、およそ40年は芸事関連で働きました。そうするうちに、芸事の真理も見えてくるようになりました。
奥田 どんな真理が見えてきたのですか?
チャチャ これまで習ってきた師たちの芸の根本は皆同じだったということです。どの芸をとっても、その形に絶対必要になってくるのが「やさしさとか、おもいやりとか、親切とか、愛すること」でした。行きつくところはすべてそこではないかと。ずっと、私は親から愛されていない、この世に愛など無いと思っていましたから。
奥田 でも、芸術は違うかもしれない、と。
チャチャ そうです。「愛されることを求めるのではなく、(芸を)愛していくことがよりどころになる」と。これは大きな発見になりました。
満を持して60歳で中国へ
奥田 60歳で中国に行かれたのは、雅楽のルーツを探りたいと思っていたからだとか。で、現在、古典芸術の伝道師として活躍されていますね。チャチャ 実は、もうひとつ中国へ行った大きな理由があります。私が4歳のとき、父は継母と結婚しましたが、継母には満州に残した婚約者がいたのです。その方が、父が不在のときにわが家へやって来たのです。
奥田 お父様も継母様も多情多恨の人ですね。
チャチャ この方は日本人で職業軍人の中佐。とても素敵な方でした。来ると中国の話をたくさんしていかれるのです。「中国には四合院という四方形の中庭を囲んだ伝統的家屋建築があって、隣にはあがりかまちがあってそこで麻雀をするんだよ、疲れると寝られる椅子があってね」などと。
奥田 チャチャは子どもながらに想像するんですね、そんな暮らしぶりを……。
チャチャ ところが、話はあるところから戦いの場面になったりします。「荒野で次の駐屯地まで行く途中、空が一転、真っ暗になって、運転手がホロの下に隠れろーっと叫ぶ。何事かと思いきや、バッタが大量に空から降ってくるんだ」とリアルに情景描写をされる。
奥田 そうか、継母の横で将校の話を聞いていたのですね。まるでパール・バックの『大地』のような話を。
チャチャ 将校は「私は職業軍人なので、日本のためなら皆殺しができるのだけど、老人やおんな子どもは逃がしてあげたい。だから、逃げろーっと叫ぶ。せめて何人かが助かってくれればいい」と話しながら、胸が痛いと、おいおい泣きました。そのとき私は、中国の人たちに負い目を感じました。
奥田 贖罪ですね。
チャチャ 私の心の中に、お詫びをしなければならないという感情が湧いてきたのです。
奥田 その将校が中国への種を植え付けたんですね。それで60歳になったら行こう、と。そういえば、『千人回峰』で芸術家の王超鷹さんを取材させていただきましたが、彼も中国の歴史に翻弄された方でした。チャチャは彼が日本に留学した際に面倒をみたらしいですね?
チャチャ 困っている中国人をただただ手伝いたいと。王さん以外にも、17年間で10人くらいの中国の留学生の面倒をみてきました。
奥田 30歳で無一文で家を出て貧乏なのに、どうして中国の留学生の手助けをしようと思ったのか。その理由がわかりました。
チャチャ 自分を支えていく技術は身につけていましたから。
奥田 知識の泉も自分が飲める位置にあるし、飲める器量もある。素晴らしい。
チャチャ 中国文化には興味がありました。特に唐時代。日本の正倉院の中を見るにつけ、唐時代のものが取り入れられ、生かされてきたこと。それらをもたらしてくれた先人がいたのだから頭が下がります。残された素晴らしい文化芸術を伝えていきたいですね。
奥田 チャチャはやはり古典藝術家だ。
上海で出会った3人の巨人
奥田 中国ではチャチャらしい生き方を見つけられましたね。チャチャ はい。さまざまな経験をして何が大切かわかりました。そういえば、そんなターニングポイントを体験しました。
奥田 どんな体験ですか?
チャチャ 64歳のとき、上海の街を歩いていたら、ビル30階建てくらいの巨人3人が目の前に現れたのです。もう他界された東儀先生と高校のときの高橋ゆき先生、そしてもう一人は坪松敏子さんといいます。
奥田 またすごい体験をなさいますね。
チャチャ 彼らはニコニコ笑って言葉もなにもありませんでした。やさしく微笑んで慈愛の眼差しがあっただけ。この瞬間に「神様はいます。見えない世界を信じます」と。これまで「生きるって? 親子ってなに? 愛ってなに?」と思い続けていましたが答えが出たようでした。
奥田 チャチャが通っておられた女学校はクリスチャンの学校でしたね。その時はまったくわからなかった?
チャチャ わかりませんでした。神様なんていないと思っていましたし、牧師さんに喋れば許される世界だと思っていました。高橋ゆき先生は女学校のとき、継母とのつらい体験について何も聞かずにそっとしてくれていました。そして私が留年しないように学校と闘ってくれた先生です。
奥田 この先生もご苦労なさったんでしょうね。東儀先生と高橋先生と、もうお一人方は?
チャチャ 坪松敏子さんといって父の親友の奥様です。観音様のような人でした。私が30歳で文無しだったときにお金を工面してくださり、部屋を借りることができました。
奥田 3人の方々はチャチャの守護霊ですね。
チャチャ 人はやさしい愛の体験があれば、それを支えにして生きていけるし、何かを愛していくことがよりどころになる。だから私も与えようと。
奥田 64歳でチャチャはクリスチャンなられた。
チャチャ 芸事をするときにも感じていました。どんな芸の形でも愛していなかったらうまくいかない。
奥田 芸事の根本が仕事の根本にも通じますか?
チャチャ 通じます。学んできた芸事すべてが生きてきます。愛をもって仕事をします。芸事の形を作るように、自分の感性で博物館を演出したり、古い街にある書院を演出していったりするのです。そのためには、博物館や書院の内容を真に理解した上で、理念や考え方を先方に聞きながら一緒につくり上げていきます。文化事業でも、商品プロデュースでも同じです。
奥田 そんなふうに後半の人生で芸事の究極が生かされたわけですね。
チャチャ 本当にそうです。そして、人が喜んでいるのを見ることは自分の幸せですね。役に立てる人間になりたい。そのために芸事を極めて行った。自分が持てる技術をしっかり持ってないといけないということです。
奥田 たくさんのいい芸術を知り、自分のものにしてきたから、応用が効くのですね。中国の人からチャチャの演出仕事は大変気に入られているのでしょう。これからも頑張ってください。
こぼれ話
「牛乳ビンに野花を入れて...」と、おっしゃる。そう言われると、小津安二郎作品のシーンがおぼろげに浮かぶ。呑気な気分でいると、小さい頃は''虐待''されていたという。ドッキリしていると、「30歳で独立。64歳で悟る」と。聞く側が驚くような人生をスラスラと、整理箱の中から人ごとの出来事のように、おっしゃる。なるほど、あの父にしてこの子ありかと腑に落ちる。
いつの頃からか、チャチャは自分をもうひとりの自分で見つめることをしておられる。これが悟りだったのか、いやそうでなく、追い詰められ続ける自分からの逃避だったのか。話題は精神世界の中に入っていった。その瞬間から、目力がさらに倍増した。あたかも自分という楽器を扱うが如く。強弱、細く太く、早く遅く、音色を変えながら話は続く。
そうだったのか。「ひちりき」だ。篳篥がチャチャの転機だったのた。お会いする時に、大切にしておられる篳篥をお持ち願った。両手にすっぽり収まる雅楽器だ。たて笛のように蘆舌(ろぜつ)を口にくわえて息を吹き込むと鳴る。越天楽を思い出して欲しい。主旋律を奏でる楽器だ。この音が鳴ると、突然に雅楽の世界に覆われる。チャチャはいう。「この蘆舌は先生がおつくりになったのよ」。この物言いを人は滅多にしない。だって生きてる中で1人か2人しかいない大切な人のことを語る時のそれだからだ。吹いて聞かせてくださいと頼んだ。すると「わたし、吹けないのよ」と。最初は戸惑ったが、軽はずみなお願いであることに気づいた。
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
<1000分の第259回(下)>
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
Profile
松本 瑜伽子
(まつもと ゆかこ)
1944年神奈川県生まれ。数多くの文化人や芸術家が集う家で幼少期を過ごす。それにより日本舞踊、ピアノ、声楽、絵画、書道、茶道、箏曲など一流の師に学ぶ。中でも日本舞踊は横浜共立学園時代に名取、最年少で師範を取り、水木流家元の継承を約束される。茶道の裏千家は教授を取得。雅楽は東儀博氏に特別待遇にて習得。日本雅楽協会に所属し文化庁行事にて演奏。ピアノ教師は40年の実績がある。現在は古典藝術伝道師として日本と中国で活躍中。