【東京都発】岩崎元郎さんは私の山の師匠だ。目の前では先生、霞の時は“岩ジイ”と呼ぶ。この名称が気に入っている。「どの山がいい」と決めつけるのではなく、とにかく行ってみて、自分で考え、感じてみようよというスタンスの方だ。「いい山はいいのだけれど、一緒に行く人、天候、季節、麓までのアプローチといった状況の違いによって、山の表情は異なってくる」と語る。そして「(日本百名山のような)何かに寄りかかっていないと、自分のアイデンティティが保てない人が多い」という指摘は、登山以外にもあてはまるのではないか。温顔の師匠の鋭い一言に、身の引き締まる思いがする。(本紙主幹・奥田喜久男)

2020.4.1/東京都豊島区の無名山塾事務所にて

河口湖でのキャンプが登山家になるきっかけに

奥田 岩崎さんは日本の中高年登山ブームをつくられた方で、私の山の師匠でもありますが、幼い頃から山に親しまれていたのですか。

岩崎 4歳の頃から小学校2年までの4年間、毎年夏に家族連れで河口湖や奥多摩にキャンプに行った記憶があります。でも、特に小さい頃から山登りをしたわけではありません。

 私は中高一貫の駒場東邦という私学に通っていたのですが、中1のときは背が伸びる(笑)からといわれてバスケットボール部に入ったもののとても歯が立たず、わずか2、3か月で退部しました。

奥田 バスケット部ですか! 笑っちゃいけないけど、長年のよしみで笑っちゃう(注・岩崎さんは身長147センチと小柄)。

岩崎 そう、笑っちゃいけない。でも自分で言っても笑っちゃう。それで中2のときは剣道部に入るのですが、面を打たれると後頭部に竹刀が入ってクラクラしてしまうんです。それでも寒稽古を経験しましたから、1年間はなんとかもちました。中3は卓球部。ちょうど荻村伊智朗選手が世界大会で優勝した時期でしたが、大会で優勝を目指すといった雰囲気の部ではなかったですね。

奥田 ということは、中学時代までほとんど山とは縁がなかったのですね。

岩崎 高1の秋、ボーイスカウト経験者の友人から河口湖にキャンプに行こうと誘われたんです。アメ横に行って米軍放出の2人用テントを3000円、グランドシートを500円で買って出かけたのですが、10月のキャンプ場はもう閉鎖されていて、近くの民家で水をもらったおぼえがあります。

奥田 小さな頃、家族で行かれた河口湖ですね。

岩崎 そうですね。その帰り、河口湖駅から富士急に乗っていると、途中の三つ峠駅で鮮やかな紺色のキャラバンシューズを履いた登山者がたくさん乗り込んできたのです。その4年前、1956年に日本隊がマナスル登頂に成功したこともあって登山ブームが起きていたのですが、このとき、自分もあんなキャラバンシューズを履いて山に登りたいと思ったんですね。

奥田 なるほど。私も憧れました。

岩崎 すでに駒場東邦には山岳部があったのですが、高1の終わりに入部したら同級生に後輩扱いされてしまうだろうと思い、それが嫌で新しい部をつくってしまったんです。

奥田 それはどのようにして?

岩崎 当時、『山と渓谷』や『ハイカー』という雑誌を読んでいて、そこでワンダーフォーゲルというものがあることを知りました。ならば、ワンダーフォーゲル同好会を立ち上げて山に行こうと、先生に顧問になってくれるよう頼み、中1から高1までの生徒にビラを配って勧誘しました。でも、偉そうにされたくないから高2は勧誘しませんでしたね(笑)。20人くらい集まったところで、活動を開始することにしました。

初めての山、初めてのコースに毎月のように挑む

奥田 活動の手始めは?

岩崎 高2になった年のゴールデンウィークに合宿をしようと、高校生は丹沢主脈縦走、中学生は奥多摩の入川谷でのキャンプを計画しました。飯盒炊さんですね。

 奥多摩は、顧問になってもらった先生に中3のときに連れて行ってもらった場所でしたが、先生から中学生だけで行かせるのはどうかといわれ、丹沢の高校生のほうは放って、中学生のキャンプの設営に友人と2人で向かったのです。

奥田 下級生の面倒は見なければいけないと。

岩崎 そうですね。設営が終わったら、今度は自分たちの登山です。キャンプ場のある入川谷から川苔山、長沢背稜を経て、雲取山まで縦走しようという計画を立てていたのです。

奥田 それはすごいですね。以前に登ったことはあったのですか。

岩崎 初めてです。

奥田 えー!

岩崎 振り返ってみると、私は山のことが先天的にわかっていたのだと思いますね。

奥田 山の天才?

岩崎 そう(笑)。でも、入川谷の遡行を始めたら緊張の連続で、山の厳しさと恐ろしさを味わいました。途中の舟井戸にあった営林署の小屋に飛び込むと、そこに登山中の早稲田の学生が5人いました。雲取山まで行くといったら「すごいね」といわれたものの、そのお兄さんたちは雲取には行かず天祖山に行くというので、それでもいいからとくっついて行ったんです。やっぱり不安だったんですね。

奥田 かわいい(笑)。

岩崎 その後は6月に表丹沢の葛葉川本谷で沢登りをし、途中の滝の上で野宿をしました。沢登りやビバークをしないと大きな顔ができないからと。

奥田 毎月山行ですか。

岩崎 ええ、7月には甲斐駒ヶ岳のふもとに実家のある友人のところに泊り、南アルプスを1週間。当時は、1泊につき米を3合持って行かなければならなかったので大変でしたね。8月にはあまり知られていない山に登ろうと、奥秩父の最高峰、北奥千丈岳をめざしました。

奥田 すごいペースで“山屋”になっていったんですね。でも高校生が、交通費や宿泊費をどう捻出していたのですか。

岩崎 おじのところでアルバイトをしたり、昼食代として1日100円もらう小遣いを1日50円に切り詰めて、残りを貯めたりしていましたね。菓子パン1個10円の時代でしたから。

   高校3年生になるとみんな山をやめてしまうのですが、私は高3の10月まで毎月行っていました。

奥田 それも初めていく山ばかりで……。

岩崎 高校時代の登山は緊張のしっぱなしでした。登り始めた瞬間から来なければよかったと後悔するのですが、帰って1週間もするとまた行きたくなるんです。

奥田 その気持ちはよくわかりますね。その後岩崎さんは東京理科大に入学されますが、大学時代はどんな山との関わりを持たれたのですか。

岩崎 大学では本格的に登山をしようと思い山岳部の説明を聞いたのですが、その年は遭難者の捜索活動が主になるということでした。それで、私は高校の先輩が入っていた昭和山岳会の門を叩きます。登山は歩くことが基本で、最初の1年間は岩登りや沢登りはやらせないという方針だったことで信頼できると思いました。でも1年目の夏山合宿で、私は真っ先にバテてしまったんです。(つづく)

お気に入りのキャラバンシューズ

 登山初心者用のイメージがあるキャラバンシューズだが、本文で紹介したとおり、岩崎さんはこのシューズをきっかけに本格的に山登りを始めた。「キャラバンに始まりキャラバンに終わる、ですか?」と茶々を入れると、にっこり笑って「終わりじゃないよ!」と。失礼しました。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第261回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。