【笹塚発】「幸せはこういうものだという“解”はありません。それぞれが、そこに向かって心が豊かになっていけばいい。地位やお金には限界がある。やりがいや生きがいには限界がない。どちらを選んでもいい。ただ、幸せな人はいつも笑っている」。これは宗教家や哲学者の言葉ではなく、キューアンドエーでチーフ・ハピネス・オフィサー(CHO)を務める安達あけるさんの言葉だ。若い人たちにこそ、早い時期に幸せについて考え、それを追求してもらいたいと語ってくれた。
(本紙主幹・奥田喜久男)

2020.8.19/東京都渋谷区のキューアンドエー本社にて

早く自立したいと考えて
夢につながる外為の都銀に入行

奥田 安達さんとは、もうずいぶん長いおつき合いになりますね。

安達 そうですね。私が日本ソフトバンクの顧問をされていた大森康彦さんの秘書として、BCNの10周年記念パーティーにお花を届けに行ったのが最初ですから、もう30年ですね。

奥田 そんなになりますか。ところで、安達さんはビジネスのキャリアを金融機関でスタートされていますが、まず、そこに至るまでの歩みについてお話しいただけますか。

安達 両親は宮城県登米郡(現登米市)の出身で、私もそこで生まれたのですが、生後すぐに千葉県柏市に転居しました。

奥田 どうして柏へ?

安達 父が35歳、母が22歳のときに結婚したのですが、どうもそれが親族に認められなかったようで、私を産んだ後、駆け落ち同然で故郷を飛び出したということです。

奥田 そんな年齢の離れた結婚は許さない、ということですか。

安達 そうですね。それで、私は小学校に上がる頃まで、ずっと家にいる父親が何の仕事をしているか知りませんでした。当時、母は市役所で働いていましたが、父は株の相場師だったんです。

奥田 今でいうデイトレーダーですね。

安達 勝負の世界ですから、常にピリピリしていました。でも大きく儲けたときは「よし、みんなで温泉に行くぞ!」というような感じで、惜しむことなく、うれしそうに大金を使っていました。ずいぶん見栄っ張りなところがありましたね。

奥田 なるほど。可愛いじゃないですか。

安達 それで、私は高校を卒業して進学も考えたのですが、なるべく早く自立して家を出たいと思い、就職の道を選びました。

奥田 なぜ、早く家を出たいと?

安達 いつも母が父に依存し、自分の意思を表に出さなかったことがイヤで、それが自分にとっての反面教師になったからだと思います。

 就職の際、高校の先生からは、東京銀行でも日本銀行でも推薦できるといわれたのですが、将来は海外で仕事をしたかったため、唯一の外国為替専門銀行だった東京銀行に入行しました。今は合併を重ねて三菱UFJ銀行になっていますが、当時、東銀は女性の人材を大切にする銀行といわれていたことも、その選択理由の一つになりましたね。

自信を失いかけた矢先に
想定外のプロポーズ

奥田 東京銀行では、どんな仕事に就かれたのですか。

安達 採用面接のとき、将来は海外で為替ディーラーとして働きたいと答えたのですが、それが功を奏して為替部為替課のディーリングルームに配属されました。おそらく窓口に配属されるだろうと思っていたのですが、およそ150名の新入社員のうちディーリングルーム配属はたった4名。夢に一歩近づくことができ、とてもラッキーだと思いましたね。

奥田 東銀のディーリングルームは、どんな職場でしたか?

安達 とても刺激的な職場でした。ガラス張りの金魚鉢のような部屋の真ん中にオーバル(楕円)のデスクがあり、そのまわりにディーラーが座ります。当時はまだユーロがなく、ドル×円、クロス(ドル×円以外の通貨)、ベーシック(顧客・各店対応)チームという三つのチームがあり、30人ほどのディーラーが取引をしていました。ディーラーのほとんどが海外駐在経験者、たとえばニューヨーク、パリ、ロンドン、シンガポール、香港といった都市で働いたことのある男性で、私はそのアシスタントをしていました。

奥田 ディーリングルームが、そのまま地球儀になると。

安達 まさにそうですね。仕事が終わった後、よく食事に連れて行ってくれるのですが、そんな経験豊かな人たちですから、私の知らない世界のいろいろな話をしてくれて、みんなとてもおもしろいんです。でも、取引の最中はタバコの煙がもくもくする中、損を出したときなどソロバンが飛んできたりする、とても緊張感のある職場でした。

奥田 やはり、為替取引の場は鉄火場なんですね。

安達 でも、私はその緊張感についていくことができず、また3年間勤めて自分にディーラーのセンスがないことに気づき始めました。そんな矢先、同じ職場の若手ディーラーから銀座のパブに誘われ、そこでプロポーズされてしまったんです。

奥田 おやまあ!

安達 若手といっても私より8歳上の人でしたが、いきなり「ロンドン勤務の内示が出たので、一緒に行ってくれないか」と。それまで恋愛対象として見ていなかったため、即答できるわけもなく、どうその場を切り抜けようかと思っていたのですが、それを見透かしたように「返事をしてくれるまで今夜は帰さない」と。

奥田 彼も勝負に出たわけですね。さすがディーラーだ。

安達 つまり、返事は「イエス」しかないと詰められてしまったわけですね。父親が相場師で、ディーラーを夫に選んだということは、やはり父親の影響を受けていたのかもしれません。父親のことを見ていたのだなと。

奥田 なるほど。それで、ロンドンでの生活は?

安達 半年ほど先に彼が渡英して生活するための準備を整えてから、私が追いかける形でロンドンに向かいました。最初の家の手配は彼がしたのですが、その後、二度引っ越しをする機会があり、そのときは私がすべての手配をしたんです。

 マーケットは24時間開いているため、為替ディーラーは、星の出ているうちに家を出て、星の出る頃に帰ってくるという長時間の勤務を強いられます。引っ越しの日も、夫は早朝に元の家を出て、夜遅く新しい家に帰ってくるというパターンでした。駐在員の妻は、全力で夫のフォローをすることが義務づけられていたのです。

奥田 それでは、安達さんご自身の仕事は?

安達 海外赴任中は、妻が仕事をするなどもってのほかでした。

奥田 時代もあるのでしょうが、海外ではより内助の功が求められていたのですね。

安達 そうですね。21歳のときに結婚、渡英し、ロンドンで5年半を過ごし、日本に戻ってからもしばらくは専業主婦の生活をするのですが、まだ26歳。このままでは自分がダメになると思いました。まさにバブルの時代で、お金には困らないものの、夫は相変わらず毎日早朝に家を出て夜遅くに戻り、週末はゴルフという生活。そこで、私は人材派遣会社や古巣の東京銀行の再雇用募集に登録してみました。すると、東銀から秘書室でアルバイトしてみないかという連絡が入ったのです。(つづく)

CA4LA(カシラ)ブランドの
帽子

 CA4LAは、安達さんお気に入りの帽子の国産ブランド。ここ数年で十数点も揃えたとのことだ。今年1月、3回目の成人式の節目の誕生祝いに部下たちがサプライズで贈ってくれたのがレース編みの赤い帽子。もちろん、これが一番のお気に入りだ。
 


心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第268回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。