【東京発】本文でご紹介している松﨑さんの小さな頃からのスポーツ遍歴をたどると、野球、陸上、ラグビー、アメフトと、進学するたびに種目を変えている。ある種目でうまくいかなかったから別の種目に変えてみるということはよくあるが、それぞれの種目でかなりの高成績をあげているのにもかかわらず、あえて新たな種目にゼロから挑戦している。少年時代からの現状に甘んじないその姿勢は、ベテランの域に入ってもビジネスの世界で新たな企業のリーダーとして挑戦する姿に引き継がれているようだ。
(本紙主幹・奥田喜久男)

2020.6.16/東京都千代田区のフジシール東京本社にて

文武両道を極めた
学生時代

奥田 松﨑さんは京都大学アメリカンフットボール部出身ということですが、いつからアメフトを始められたのですか。

松﨑 アメフトを始めたのは、大学に入ってからですね。子どもの頃は、けっこういろいろな競技を経験したんです。小学校の6年生までは野球をやっていました。父が福島県の磐城高校野球部出身で、甲子園出場まであと一勝というところまで行ったのですが、その夢を息子に託して、物心ついたときから毎日キャッチボールです。それでリトルリーグに入ったのですが、そこでの平均打率は約7割でした。足も速かったんですよ。

奥田 それはすごいなぁ。そんなに上手いのに、なぜ野球を続けなかったのですか。

松﨑 中学に入って野球部に入ろうと思っていたのですが、野球部は坊主頭にならなければいけないと聞いて、陸上部に鞍替えしたんです。親父には怒られましたねぇ。でも、多感な時期ですから「坊主なんて冗談じゃない」と(笑)。それで、陸上部では100mと走高跳をやって、水戸市の中学校大会で100mは6位に入賞しました。でも、そのまま陸上を続けるよりも、高校から始められるスポーツをやりたいと思い、入学した水戸一高ではラグビー部に入るかボクシング部に入るか迷ったのです。

奥田 ほう、両方とも激しいコンタクトのある競技ですね。

松﨑 高校に入学したとき、親が関西へ転勤になり、私は水戸で一人暮らしになったのですが、ボクシング部に入るのなら仕送りを止めるといわれました。ボクシングは危険だと、母がひどく心配したからです。それでラグビーをやることにしました。花園には行けませんでしたが、県でベスト4に入り関東大会には出場しました。進学校にしては強いほうだったんです。それで、慶大ラグビー部からセレクションを受けないかというお誘いもあったのですが、結局、慶応は受けませんでした。もっともセレクションで認められても、現役で入学できる実力はなかったので(笑)。

奥田 それで京都大学を目指した理由は?

松﨑 私が高校2年のとき、京大のアメリカンフットボール部が、当時無敵の強さを誇っていた関西学院大の連勝記録を145で止めたことがたいへんな話題になりました。このとき「これは京大に入ってアメフトをやるしかない」と思ったんですね。高校時代はラグビー一色だったので現役では合格できませんでしたが、一浪の後、京大に入学しました。

奥田 まさに文武両道ですね。京大アメフト部といえば、現在の日本代表ヘッドコーチを務める藤田智さんなど優秀な人材を数多く輩出していますが、松﨑さんはそこで何を得ましたか。

松﨑 水野弥一監督の薫陶を受けたことが大きかったですね。具体的には、最後まで諦めずに勝とうと思う選手が多いチームが勝つ、という考えが身につきました。勝利にどれだけこだわるかと。

奥田 なるほど、それもリーダーとしての一つの考え方ですね。

自分はどれだけ大きな組織を
牽引していけるのか

奥田 松﨑さんはラグビーとアメフトの両方を経験していますが、その大きな違いはどこにあると思いますか。

松﨑 ラグビーチームには巨漢はいても、贅肉のついた選手はいません。100キロ以上ある選手でも、80分間グラウンドを走り回れるわけです。それに対してアメフトでは、明らかに太っていて走れないけれども相手をブロックしてチームに貢献する選手もいれば、ガリガリに痩せているがものすごく足の速い選手もいます。また、キックだけ抜群にうまいという専門職の選手もいる。ある意味、ダイバーシティですね。それは、それぞれがポジションに応じた特性を発揮できるということであり、いろいろなタイプの人が活躍できる競技であることが、ラグビーとの大きな違いでしょう。

奥田 それをビジネス組織に置き換えてみると?

松﨑 組織が大きいほどアメフトスタイルでなければならず、逆に30人、50人といった小さな組織ならラグビースタイルでないとダメですね。人手が足りなくなったら、すぐに誰かがサポートしなければなりませんから。

奥田 松﨑さんは、どちらのタイプのリーダーなのですか。

松﨑 どちらのタイプということはないのですが、日本IBMに入社したときも社長になろうと思いましたし、基本的にはより大きな組織のリーダーを目指してきました。それが人生の目標です。

奥田 それはなぜ?

松﨑 自分でもわかりません。ただ、自分は何人までの組織のリーダーができるか、試しているんです。このフジシールには2500人ほどの社員がいますが、いまのところ、その人数は率いていけていると思っています。

奥田 ところで、IBMの後はIT企業ではなく製造業に転じられていますが、そこに何か理由はあったのですか。

松﨑 さまざまな工夫をコツコツと積み重ねて優れた製品を生み出していく製造業は、日本人に向いていると思ったからです。シュナイダーでも、在庫や物流など、製造業に不可欠な業務についてずいぶん勉強させてもらいました。

奥田 そして今回、フジシールでの松﨑さんのミッションはどんなことなのでしょうか。

松﨑 会社を変えてほしいということでした。当社はシュリンクラベルの成長により伸びた会社で、飲料用では高いシェアを獲得しています。それだけに、その成功体験によって成長が阻害される恐れがあるわけです。

 ただ、営業がお客さんから要望を聞いて、それを開発が頑張って設計し、それを工場が頑張ってつくる。とても「素直で真面目な会社」なのです。これはとても自慢できることだと思いました。営業はフットワークが軽いし、開発はちょっとしたことでもすぐにそれを取り入れてサンプルをつくるし、工場は厳しい環境でも懸命に仕事をしてくれています。でも、それ以外のこと、例えば人事制度とかマーケティングといっても、ピンとこない。私がこれまでIBMやシュナイダーで学んできたことをほんのわずかに実践しただけで、大きな変革に見えます。

奥田 そのうち、やりすぎじゃないですかと……。

松﨑 もちろん徐々に取り入れていますし、外資系のようなトップダウンのやり方をするつもりは一切ありません。そういう手法は、日本人には合いませんから。

 この会社に来て最初にやったことは、管理職以外の営業全員とランチをしたことです。そこで、若い人たちに困っていることはないかと尋ねました。そうすると、いろいろな情報や提案が上がってきます。そして、彼ら、彼女らに小さなプロジェクトを任せてみる。そういうことの積み重ねで、若手社員に会社を変えられるという意識を持ってもらおうと考えているんです。

奥田 今日はとてもいいお話を伺えました。今後のますますのご活躍を期待しています。

こぼれ話

 松﨑耕介さんから転職の挨拶状が来た。おや、外資系ではないんだ。あれ、IT業界ではないんだ、と独り言。株式会社フジシールの経営幹部としての肩書きだ。いずれは社長就任が折り込まれているのだろう。さっそく、フジシールという会社の研究と相成った。ネットで検索してみると、フジシールインターナショナルがトップに出てくる。ホールディング会社だ。岡﨑成子社長。本社は大阪と東京。1997年上場、2003年東証一部に上場。2020年3月31日決算。グループ連結従業員数5719名、資本金59.9億円、連結売上高1609.25億円。シュリンクラベルなどのパッケージ・ビジネスで世界に進出するエクセレント・カンパニーだ。

 創業は1897年。老舗である。酒樽の栓を作ることを生業としていた。液体を運ぶボトリングは永遠のテーマ。1950年代に木工業から化学素材の今に繋がる業態に転身した。海外への進出に関しても同様で、明日につながる世界が見える経営者がおられたのだろう。人材の流動性が常態になった現在、リクルートに代表される転職業種は国のGDPを司る人事部門といえる。その中にあって、外資系企業で訓練を受け、業績を積んでいる人材は転職業種の宝である。日本IBMを履歴書に記す人材は転職業種にあっては、さらにダイヤモンドとなっている。個人の資質にもよるが、IBMのマネジメントスキルを身につけた人材が評価されているのだろう。もちろん、人間性は基本要素であるが……。

 松﨑さんの歩みを辿ってみるとーー。IBMでの職歴の前に、京大アメフト部での活躍の経歴を見逃すことはできない。何を身につけたのかはさておき。同じ釜の飯を食った人たちを列挙してみる。ただし、私の知るIT業界に限る。NECの新野隆社長。富士通アメフト部・前ヘッドコーチの藤田智氏(現アメリカンフットボール日本代表ヘッドコーチ)、そして松﨑さんだ。まだ、新野さんに直接伺ってはいないが、共通する考え方の源は京大アメフト部・水野彌一監督(当時)との出会いであり、その教えであろう。しかし人には公平に出会いがある。その出会いをどのように受け止め、どう自分の中で育て上げるのか。ここが肝だ。遅ればせながら「水野彌一語録/限界を超えろ!」に“何か”を学ぼう。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第266回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。