ハードウェアづくりの世界から新たなビジネス創造への転換――第322回(上)

千人回峰(対談連載)

2023/02/10 08:00

宮沢和正

宮沢和正

ソラミツ 代表取締役社長

構成・文/小林茂樹
撮影/松嶋優子
2022.11.25/東京都渋谷区のご自宅にて

週刊BCN 2023年2月13日付 vol.1957掲載

【東京・恵比寿発】「世の中にないものをつくりたい」。宮沢和正さんとの2時間足らずの対談の中で、何度か飛び出したフレーズだ。言葉としては簡単だが、それを実現するにはおそらく気が遠くなるほどの努力・時間・知識が求められる。戦後すぐの時代は、いまでいうスタートアップだったソニーも日本を代表する大企業となり、大きな変化にさらされてきた。冒頭の言葉はおそらくソニーのDNAの一つであり、創業の志といっていいのだろう。そして宮沢さんは、いま、若きスタートアップの面々とともに新たな変革に挑んでいる。
(創刊編集長・奥田喜久男)

2022.11.25/東京都渋谷区のご自宅にて

新事業の立ち上げで
海外でのビジネス経験を積み重ねる

奥田 現在、宮沢さんはソラミツの社長としてフィンテックの最前線で活躍されていますが、もともとはソニーで最先端の技術開発に携わっておられたのですね。

宮沢 ソニーではいろいろなことをやらせてもらいましたが、新事業の立ち上げを任せられることが多かったですね。入社8年目の1988年には、マレーシアのジャングルを開拓して、新工場を立ち上げたこともありました。

奥田 どんな製品の工場ですか。

宮沢 ラジカセの組み立て工場です。当時、ラジカセはものすごい勢いで売れており、世界中に輸出していたのですが、88年の為替レートは1ドル80円ほどの円高で、生産拠点を海外に移す動きが加速していました。この工場で生産されたラジカセはシンガポールに運ばれ、コンテナに積み替えられて各国に送られたのです。

奥田 そのとき、宮沢さんはどんな立場で赴任されたのですか。

宮沢 企画部門担当の部長です。第1期として7人の日本人社員が赴任したので「七人の侍」になぞらえながらも懸命に働きました。私は3年間駐在しましたが、その3年でまったく何もないところから7000人もの労働者を擁する大きな工場になったのです。

奥田 3年間で7000人ですか。すごい勢いですね。

宮沢 毎日、100人採用するような感覚ですね。それで、毎朝、従業員を乗せた通勤バスが120台来るわけです。

 工場はリゾート地であるペナン島の対岸のバタワースという地域の産業特区にありましたが、私はペナン島のコンドミニアムに住んでいました。仕事は大変でしたが、休日はマリンスポーツに親しんだりして、いい思いもさせてもらいました。

奥田 その後、海外には?

宮沢 96年から98年までの3年間、アメリカのシリコンバレーでも働きました。VAIOの立ち上げです。パソコン事業では後発のソニーですが、インテルやマイクロソフトと打ち合わせながら、なんとかシェアを取っていきたいと考えていました。

奥田 当時、VAIO開発の中心人物はどなただったのですか。

宮沢 社長の出井(伸之)さんが、プロジェクトリーダーを務めていました。このとき、出井さんは会長の大賀(典雄)さんから、VAIOの開発にあたって、アメリカ市場と日本市場ではどちらのほうが有望か、デスクトップ型とノート型ではどちらのほうが売れるかと、半ば賭けをするようなかたちで問われたのです。

奥田 もしかすると、出井さんと大賀さんの見立ては異なっていた?

宮沢 出井さんは、市場規模が大きいアメリカで、当時の主流だったデスクトップ型のほうが売れると答えました。ところが大賀さんは、後発であるがゆえにオーディオやビデオと組み合わせて差別化を図り、ソニーが得意とする小型の製品をつくり、日本市場で勝負すべきと主張しました。その結果できたのが、B5サイズで薄型のチャーミングなスタイルのVAIOでした。

PC10万台の注文を断っても
ソニーブランドを守り続ける

奥田 賭けの結果は?

宮沢 B5ノートは国内で大ヒットし、アメリカで開発したデスクトップは価格競争に巻き込まれて、在庫の山を築く結果となりました。当時のコンパックやヒューレットパッカードの製品に、太刀打ちできなかったのです。

奥田 出井さんの下で開発にあたっていた宮沢さんとしては、ちょっとつらいですね。

宮沢 さんざんな目に遭いましたね(笑)。でも、このシリコンバレーの3年間はいろいろな経験をしました。たとえば、あるときインターネット接続業者のアメリカ・オンライン(AOL)から、10万台のパソコンをつくってくれないかという打診がありました。ただし、その製品はソニーブランドではなくAOLブランド、つまりOEM生産であることが条件でした。おまけに、そのパソコンは無料で配布するといいます。接続料で儲けるからハードはタダでいいと。

奥田 当時としては大胆なビジネスモデルですね。

宮沢 10万台という数字は魅力ですが、OEMということで非常に悩みました。そのとき思い出したのが、ソニーの創業間もない頃、盛田昭夫さんがアメリカにトランジスタラジオを売り込みに行った際、同じ経験をしていたことです。

 ソニーなどという無名のブランドでは売れないので、アメリカの有名なブランド名で出すのなら買ってやるという話を、盛田さんは断ったのです。これからソニーのブランドを確立しようというときに、他社のOEM生産をしている場合ではないと。

奥田 宮沢さんは、そういう歴史を基に判断されたのですね。

宮沢 「ブランドを大事にしよう」という考えは、盛田さん、大賀さんをはじめとした代々の経営者が脈々と伝え続けており、私もその考えにしたがってこの商談を断りました。もちろん、この件は本社にも伝えましたが、本社側も納得してくれました。

奥田 本社サイドも目先の利益よりブランドが大事と判断したということは、やはりそうした考え方が浸透していたわけですね。

宮沢 そうですね。その一方で、私はこの一件を通じて感じたことは、ソニーもいずれハードウェアだけでは立ち行かなくなるということでした。これからは、ハードウェアをつくりながらも、なんらかのサービスにより収益を上げるビジネスに変えていかなければならないことを実感したんです。

 97年頃のことですが、出井さんが「これからはインターネットだ。これが世の中を変え、恐竜が滅びたのと同じようにインターネットによって既存の産業が滅びるかもしれない」と幹部会で発言したのですが、私以外は誰もピンと来ていない様子でした。

奥田 AOLとの一件があったからこそ、宮沢さんにはその先の姿が見えて、出井さんの話にも得心できたと。

宮沢 私は98年にシリコンバレーから帰任したのですが、これからはハードウェアをつくるのではなく、新しいビジネスをやりたいと考えました。

 このとき、在米中から面識のあった本社の伊庭(保)副社長から声がかかり、ソニー銀行の開設準備室に技術担当として所属することになったのです。それまでまったくなじみのなかった金融の仕事などできるのかと思いましたが、伊庭さんは「君ならできる」と。

 まさに私にとって新しい領域へのチャレンジでしたが、物事はそう簡単には運びませんでした。(つづく)

宮沢さんの2冊の著作

 一冊は『かくして電子マネー革命はソニーから楽天に引き継がれた』(インフキュリオン カード・ウェーブ編集部)、もう一冊は『ソラミツ――世界初の中銀デジタル通貨「バコン」を実現したスタートアップ』(日経BP)である。前者は、宮沢さんが20年にわたって開発に携わった電子マネー「Edy」の誕生秘話であり、後者は、現在、宮沢さんが社長を務めるフィンテック企業ソラミツの取り組みを詳細に紹介したものだ。いずれも資料的価値は高く、それに加え、それぞれの事業に関わった人々の息吹が伝わってくる。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第322回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

宮沢和正

(みやざわ かずまさ)
 1956年、東京生まれ。80年、東京工業大学大学院修了(経営工学修士)。同年、ソニー入社。VOD企画室室長、ソニーUSAダイレクター、パーソナルファイナンス企画室長、ICカード事業部総合企画室統括部長などを歴任。2001年、ビットワレット執行役員企画統括部長に就任し、日本での電子マネーの草分けであるEdyの立ち上げに参画する。同社常務最高戦略責任者を経て、10年、楽天Edy執行役員企画室長に就任。17年、ソラミツ最高執行責任者(COO)。19年、同社代表取締役社長に就任。東京工業大学経営システム工学非常勤講師、ISO/TC307ブロックチェーン国際標準化日本代表委員も務める。