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大きな思い入れのなかった音楽が生涯の仕事に変わるまで――第320回(上)

千人回峰(対談連載)

2023/01/13 08:00

河合由里子

河合由里子

サウンド&ミュージック クリエーション 代表取締役

構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一
2022.11.7/東京都世田谷区のオーキッドミュージックサロンにて

週刊BCN 2023年1月16日付 vol.1953掲載

【東京・二子玉川発】音楽の世界で活躍されている河合由里子さんは、とてもソフトな口調で上品な物腰だが、話をうかがっているうちに、内に秘めた情熱や行動力が垣間見えてきた。河合さんは「しなければならないこと」「したいこと」「人の役に立つこと」をバランスよく続けていくことが信条であり、それが自身の幸せにつながると話してくれた。「なんとか実現させたい」「なんとかしてあげたい」というフレーズを何度か耳にしたが、それはまさに「人の役に立つ」という思いの発露であり、そのエネルギーの源泉なのだと思い至った。
(創刊編集長・奥田喜久男)

エレクトーンとの出会いがきっかけで
音楽教室運営に携わる

奥田 ここ二子玉川のオーキッドミュージックサロンは、以前、音楽プロデューサーの大石修治さんに『千人回峰』(2022年6月20日号、27日号掲載)の取材をさせていただいた場所ですが、改めてすばらしいホールだと感じます。

河合 ありがとうございます。このサロンを開設したのは2010年ですから、もう12年になりますね。

奥田 現在、河合さんはホールのオーナーであるとともに、コンサートのプロデュースなど音楽の仕事に広く携わっておられますが、そもそも音楽の世界に入られたきっかけはどんなことだったのでしょうか。

河合 私は音楽大学出身ではありませんし、幼い頃からピアノを習っていたくらいで、音楽に対してそれほど大きな思いを抱いていたわけではありません。大学ではハワイアンバンドに参加していましたが、実はこの世界に入るきっかけとなったのは、大学を卒業する頃に普及し始めたエレクトーンを習ったことなんです。足鍵盤もあって、面白いなと。

奥田 いろいろな楽器の音色が出せるし、ピアノを習っていた土壌があるから、比較的入りやすかったのでしょうか。

河合 そうですね。それで指導者養成コースに進んでエレクトーンを続けていたのですが、あるとき、楽器店の方から「音楽教室を開きたいという方がいらっしゃるのですが、河合さんも一緒に物件を見に行きませんか」と誘われ、興味本位でついて行ったのです。するとしばらくして、当初、開業を予定しておられた方が事情があってできなくなったという連絡がありました。ついては、河合さんにやる気はないかと。

奥田 人生の分岐点の匂いがしてきました。

河合 その物件は田園都市線の鷺沼にあり、私の家からも近かったのですが、ビルの二階は三方が窓で、富士山がよく見えたんです。こんなところで音楽が学べたらどんなにいいかと思いました。

奥田 環境にもほれ込んでしまったのですね。

河合 父に相談すると、私が音楽に関わることは趣味のようにとらえており、あまり経費の多寡や採算にこだわらずやりなさいと言ってくれました。

奥田 ある程度お金をかけて、いいものにしたほうがいいということですね。そのお父さんの考えは、どんなところに生きていますか。

河合 一般的なピアノは88鍵ですが、ここオーキッドミュージックサロンにあるのはベーゼンドルファーの92鍵です。それから、練習室にはスタインウェイとヤマハのグランドピアノを置きました。こちらのサロンを開くときには内装や防音にこだわり、ことに防音工事はピアニストの清水和音さんの協力を得て、やり直しました。

奥田 お父さんは、河合さんの挑戦を後押ししてくれて、その後の展開にも影響を与えられたのですね。ちなみに、お父さんはどんなキャリアを積んでこられた方なのでしょうか。

河合 父は新潟出身のエンジニアで、早稲田の理工学部を出て戦時中はレーダーの研究をしていたそうです。戦後は、電灯の三段階スイッチやカーラジオ用押しボタン式チューナーなどを開発し、3000件ほどの特許や実用新案を取得しています。

奥田 昔のカーラジオはつまみを回してチューニングしていましたが、ボタン式になって運転しながらでもとても選局がラクになったおぼえがあります。すごい発明をされたのですね。

河合 私の小さな頃、朝起きると、茶の間に広告チラシの裏に書いた図面がたくさん残されていました。そのくらい父は、ものづくりに没頭するタイプだったのだと思います。

奥田 それが、特許・実用新案3000件の元になっているわけですね。

研究に没頭していた父が信じた
次女の“勘”

奥田 富士山の見える鷺沼の音楽教室を開いたのは?

河合 1974年です。鷺沼ミュージックセンターといいますが、02年に事業譲渡するまでの28年間運営してきました。

奥田 教室はどのくらいの規模でしたか。

河合 生徒さんが一番多かった時期は800人ほどで、講師も40人ほどいました。ピアノ、バイオリン、フルート、ギター、声楽、エレクトーンをはじめヤマハのシステムなど、すべての教室を開いていたため、最後の02年頃でも400人ほどの生徒さんがいたと思います。

奥田 それは立派ですね。お父さんのおっしゃる“趣味”どころではない事業レベルです(笑)。せっかくそこまで成長させたのに、手放したのはなぜでしょうか。

河合 父母が高齢となり、ことに母の体調が悪かったことがその理由です。

奥田 現在、河合さんはこちらのサロンの代表を務めるかたわら、チューナー・ホールディングスの代表も務められていますね。

河合 はい。私は姉と二人姉妹で、姉のほうが税理士資格を取るくらい真面目で勉強ができるタイプだったのですが、私に息子がいたこともあり、当初、父は私を跡継ぎにしようと頼っていたのです。

奥田 経営者の資質?

河合 私はそんな設計や製造などわからないからと返事を避けていたのですが、父は私の“勘”を信頼していたようでした。カーラジオのボタン式チューナーが絶好調の時期は、いろいろなところに工場を建て増産体制を整えて、それに伴い、不動産も少なからず所有していました。

 父はそうした不動産物件の運用や整理する際に、よく私に相談していました。例えば「あの工場用地はなかなか売れないな」と嘆く父に、私が「大丈夫よ。年内には売れるわよ」と言うと、本当に年末のクリスマス頃に売れたこともありました。

奥田 お父さんが、由里子さんの“勘”を頼る理由がわかりますね。

河合 私は88年に父の会社であるチューナーの取締役になっていましたが、工場をもつ製造業と不動産管理業を分けるよう提案し、08年に不動産管理会社としてのチューナー・ホールディングスの社長になりました。現在、製造業のほうのチューナーの社長には、昔からオーディオ好きだった私の長男が就いています。

奥田 事業承継もうまくまとまったわけですね。

河合 少し時期はさかのぼるのですが、83~89年の約7年間は、夫の仕事の都合でスウェーデンに住んでいたんですよ。

奥田 えっ、鷺沼ミュージックセンターを運営している時期ですよね。

河合 そうです。夫はパナソニック・スベンスカの代表として赴任していましたが、私は日本とスウェーデンの間を行ったり来たりしていました。当時、まだ中高生の息子2人がいて、いまチューナーの社長をしている兄のほうは日本に残り、弟のほうはスウェーデンに行くということになり、教室だけでなく長男のケアもしなければならないという事情もあったのです。

奥田 簡単に「行ったり来たり」とおっしゃいますが、なかなか大変な生活ですね。

河合 そんななか、あるとき日本に帰ろうとすると、オーバーブッキングで南回りに経路変更をせざるを得なくなってしまったのです。でも、そこでの偶然の出会いが、私に大きな変化をもたらしました。(つづく)

お父さんが96歳のときにつくった精聴器(補聴器)

 河合さんのお父さんは10年前、98歳6カ月で天寿を全うされた。晩年、自身の耳が悪くなったことから、96歳のときに最後に開発したのがこの補聴器。誰もが使えてハウリングがなく安価なものを目指し「これは補聴器ではなく“精聴器”だ」と言っていたという。生涯、開発研究を貫いたその姿勢は、黒板の設計メモに現れている。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第320回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

河合由里子

(かわい ゆりこ)
 1943年10月、東京生まれ。67年、立教大学卒業。74年、鷺沼ミュージックセンター設立。88年、チューナー取締役就任。2000年、サウンド&ミュージック クリエーション設立。03年、NPO法人レジーナ・チェーリ芸術振興会設立。08年、チューナー・ホールディングス代表取締役就任。10年、オーキッドミュージックサロン開設。この間、川崎市宮前区音楽事業推進委員長、川崎市文化行政推進懇談会委員、ミューザ川崎ホール・パイプオルガン設置検討委員会委員なども務める。

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