青いケシの花に魅せられて ヒマラヤの奥地を渉猟する――第319回(上)

千人回峰(対談連載)

2022/12/26 08:00

千葉盈子

【対談連載】登山家 千葉盈子(上)

構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一
2022.10.19/神奈川県横浜市のご自宅にて

週刊BCN 2023年1月2日付 vol.1951掲載

【横浜・大倉山発】私の趣味の山仲間を通じて千葉さんのことを知った。ぜひ一度お会いして話を聞きたいと思った。1970~80年代、アクティブな女性が増えてきたとはいえ、本格的な登山経験もなければプロの写真家でもないOLさんが、幻の青いケシを求めてヒマラヤまで行き、写真集まで出してしまったというからだ。でも、お話をうかがっているうちに、この取材のトピックはそれだけにとどまらないことに気づく。「女性の自立した生き方」といった、ある意味、普遍的なテーマにまで広がっていったからだ。
(創刊編集長・奥田喜久男)

2022.10.19/神奈川県横浜市のご自宅にて

野鳥の会に参加したことが
青いケシ探しの旅につながった

奥田 千葉さんは『青いケシの咲くところ』という写真集を、1990年、97年、2003年と、3回にわたって出版されています。青いケシは幻の花といわれているそうですが、まず、この花に魅入られたきっかけを教えていただけますか。
 

千葉 『秘境ブータン』(中尾佐助著)を読んで青いケシがあることは知っていましたが、主人が『青いケシの国』(F・キングドン=ウォード著、倉知敬訳)という本を買ってきて、それを読んだときから、実物を見てみたいと意識するようになりました。

奥田 それはいつ頃の話ですか。

千葉 70年代の中頃でしょうか。主人も私もこの本を読んで「将来、この青いケシを見に行く人が出てくるかもしれないね」と話していたんです。まさか私が行くことになるとは、当時は二人とも考えていませんでした。

奥田 そんなお話をされていたのに、どうして千葉さん自身が青いケシを探しに行くことになったのですか。それもヒマラヤまで。

千葉 72年に日中国交正常化が成立し、人の行き来が自由になったタイミングで、79年に「幻のブルーポピー(青いケシ)を訪ねる」というトレッキングの募集が『山と渓谷』に出たのです。それを主人が見つけて「こんなのが出たぞ!」と私に見せてくれました。

奥田 そんな高地での登山経験はあったのですか。

千葉 国内での尾根歩きの経験はありましたが、本格的な登山をしたことはありませんでした。

奥田 尾根歩きはご主人と?

千葉 主人は鳥が好きで、日本野鳥の会に入って、毎週のようにいろいろなところに行って観察していました。その活動のなかで、尾根歩きをすることもよくあったのです。

奥田 新婚早々、千葉さんも野鳥の会に入られたのですね。

千葉 そうですね。私は植物に興味があったのですが、鳥に関しては雀、烏、鳩など一般的なものしか知りませんでした。

 最初は軽井沢探鳥会に参加したのですが、当時、日本野鳥の会の創設者である歌人の中西悟堂さんがバスの一番前に乗り込んで引率してくれました。軽井沢では、さまざまな美しい鳥たちが活発に木々を飛び交い、虫や木の実をついばむ姿を初めて見て、驚くような自然の美しさに触れることができ、自分は何も知らないなということを実感したことを覚えています。

奥田 最初の写真集の謝辞に「大いなる自然への水先案内人 千葉 実さんへ」とありますが、ご主人と野鳥の会に参加されたことが大きなきっかけになったと。

千葉 はい。そうしたことを通じて私の世界が大きく広がりました。

英語との出会いが充実した職業生活をもたらした

奥田 写真集のお話はのちほど改めてうかがうとして、そんなアクティブな千葉さんはどんな少女時代を過ごされたのでしょうか。

千葉 私は、昭和9年に大阪で生まれました。父は大阪の電気局に勤める技術者でしたが、友人から日本統治下だった現在のソウルに変電所をつくる仕事に誘われ、私たち家族も一緒について行きました。そして、私が小学校5年生のときに終戦となり、父の故郷である秋田県の旧雄勝町に引き揚げたのです。

奥田 いろいろご苦労があったでしょう。

千葉 父方の本家のおかげで私たちが住む場所は確保できましたが、父自身は仕事を失い、子ども5人の家族でしたから、母も小間物店を開いたり生花を教えたりしながら、だいぶ苦労したようです。

奥田 秋田にはいつまでおられたのですか。

千葉 高校を卒業するまで秋田にいました。実は、高校卒業間近という時期に、母が突然「このままここにいてはいけない。東京に行きなさい」と私に言ったのです。

奥田 えっ、それはどういうことですか。

千葉 秋田には父方の親類がたくさん住んでいたのですが、どうもその関係で、私への結婚の申込みがあったようなのです。このまま私が秋田にとどまれば、その縁談を受けざるを得ないことになると考えた母は、私に東京の学校に進学するように勧めたわけです。

奥田 戦後とはいえ、まだまだ封建的な考え方が残っていたでしょうから、お母さんの判断はとてもシャープだったのではないかと思います。スゴイですね。それで上京されてからは?

千葉 横浜で医者をしていた父方の伯父の世話になることになり、そこで初めて進学先の希望を聞かれました。当時、英語に魅力を感じていたため、四年制の英文科に行きたいと。それで、実践女子大学に入ることになったのです。

奥田 英語に魅力を感じたのはなぜですか。

千葉 当時、英語で何かをやろうとは考えていませんでしたが、日本が戦争に負けて、アメリカが光って見えたということが大きかったのだと思います。私自身、新制中学の第一期生ですから、終戦後英語の先生はおらず、きちんと教えてもらったことが少なかったので、あまり英語の勉強はしてこなかったんです。

奥田 それで、英語は千葉さんの人生にどんな影響を与えましたか。

千葉 大学卒業後、主人とは科学技術庁金属材料技術研究所という国の研究機関で出会って結婚したのですが、主人は研究者でしたが私は事務職でしたので、何か手に職をつけなければという気持ちがありました。そんなとき、教会で働いていた友達から、英文速記ができるとお給料は2倍になるという話を聞き、夜は渋谷にある英文速記の学校に通ったのです。

奥田 結婚されてからも、キャリアアップを目指したのですね。

千葉 英字新聞の求人欄を見て、日米合弁のキャタピラー三菱のステノセクレタリー(英文速記のできる秘書)に応募しました。アメリカ側の秘書ですから、ボスは日本に赴任してきたアメリカ人です。

奥田 英文速記というのは、具体的にはどんな仕事なのですか。

千葉 速記の清書とか、書類の整理、電話の取り次ぎなどです。ボスの口述を速記してタイプライターで清書し、その内容をボスがチェックし、サインした後に送るという流れですね。

奥田 ちょっと昔の洋画に出てくるような、かっこいい仕事ですね。

千葉 みんなおしゃれさんでしたね。女性だからといってお茶出しをすることはないし、お給料もずっとよくて、土曜休みが認められるなど、日本側の秘書とはだいぶ待遇が違いました。

 ボスは3年ほどで交代するのですが、私は7、8人のボスに仕えましたから、20年以上この仕事を続けたことになります。(つづく)

千葉さんの愛機、ニコンFA

 青いケシを求めて、ネパール、インド、ブータン、中国を旅した千葉さんがいつも携えていたのは、45ミリと105ミリのレンズをつけた2台のニコンFA。もちろんフルマニュアルのフィルムカメラである。1回の旅で36枚撮りのポジフィルムを50本ほど使ったそうだ。ちなみに、写真は自己流で、手持ちで三脚なし、師匠なしとのこと。それはそれでまたスゴイ!
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第319回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

千葉盈子

(ちば えいこ)
 1934年、大阪生まれ。父の赴任先で日本の統治下だった現在のソウルでの生活を経て、小学校5年生のときに敗戦を迎える。引き揚げ後は、高校卒業まで秋田県雄勝町(現・湯沢市)で育つ。57年、実践女子大学英文科卒業。金属材料技術研究所勤務を経て、キャタピラー三菱(現・キャタピラージャパン)で、長年、ステノセクレタリー(英文速記秘書)を務める。

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