はじまりは 自分の好きな「きれいな音」を探すことだった――第317回(上)

千人回峰(対談連載)

2022/11/11 08:00

大萩康司

【対談連載】ギタリスト 大萩康司(上)

構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一
2022.9.13/東京都中央区のKAJIMOTOにて

週刊BCN 2022年11月14日付 vol.1946掲載

【東京・銀座発】この『千人回峰』の連載は、人との「縁」で成り立っているのではないかと思うことがしばしばある。今回ご登場いただいた大萩康司さんのお兄さんはVFXクリエーターの大萩真司さんで、9月12日号と19日号の本欄に掲載させていただいた映像プロデューサーの福山賢一さんとは仕事を通じた親しい仲だという。クラシック好きの私としては、またとないチャンスだ。早速ご紹介いただき、クラシックギターの名手にじっくりとお話をうかがうことができた。
(創刊編集長・奥田喜久男)

母親の趣味が
世界的ギタリストへの道に導く

奥田 最初にギターと出会ったのは、いつのことですか。

大萩 8歳のときです。子どもの頃、私は小児ぜんそくで、外を走り回ったりするとすぐに発作を起こしていました。そのため、家の中で折り紙や粘土といった遊びをすることが多かったのですが、母が趣味のギターを再開したのを見て、自分もやってみたいと思ったのが最初ですね。

奥田 お母さんは、若い頃からギターを弾いておられたのですか。

大萩 地元の同級生が主宰するギターサークルで、初めてクラシックギターにふれたと聞いています。

 当時、NHKの教育テレビで「ギターをひこう」という番組をやっていて、その講師として荘村清志さんが出演されていたのですが、母は荘村さんの大ファンでした。私がプロになってから何枚もCDを出しているのですが、母が評価してくれるのはその荘村さんと福田進一さん、鈴木大介さんの4人でつくった「DUO2」というアルバムだけで、他のCDについては何もコメントしてくれないんです。苦労して弾いた作品がほかにもたくさんあるのに(苦笑)。

奥田 やはり、息子がいくら優れたギタリストであっても、ご自身の若い頃のレジェンドの魅力には勝てないのでしょうね(笑)。

大萩 そうですね。それから、もし荘村さんがギターをやっていなかったら、私もギタリストになることはなかったわけですから。

奥田 お母さんにも荘村さんにも感謝ですね。ところで8歳の康司少年は、最初にギターを弾いたとき、どんな感覚でしたか。

大萩 最初は母に「ドレミファソラシド」の弾き方を教えてもらったのですが、母の弾く音があまりきれいではないと感じました。

奥田 ほー、もうすでに……。

大萩 そのとき「もっときれいな音が出ないのか」と思ったんですね。私も母と同じギターサークルに入れてもらったのですが、そこの先生が「大萩君が一番きれいだと思う音で演奏しなさい」と言われて、きれいな音というのはどういうものなのか、自分の好きな音はどんな音なのかを探すようになりました。

奥田 音を探す……。

大萩 ギターという楽器は、弾く場所によって硬い音が出たり柔らかい音が出たりと、いろいろな種類の音が出せます。“爪”の角度によってもそれはさまざまに変わってきます。そうした音を変化させることが可能な楽器だということが遊んでいるうちにわかってきて、自分の好きな音を見つけていったんですね。

奥田 ということは、お母さんにはできなかった音の聞き分けができたのですね。

大萩 でも、母は「面白い・面白くない」の判断はできて、「この演奏はつまらんね」とか言っていましたから、できないというわけではありません。音の聞き分けというのは、食の好みなどと同じようなものだと思いますね。はっきりとした味が好きな人もいれば、出汁の微妙な違いがわかる繊細な舌の人もいるわけですから。

自前のコンサートを開いて
渡航費用を捻出

奥田 その後、大萩さんはプロの道に進まれるわけですが、そこに至るまでにどんな経験をされたのでしょうか。

大萩 8歳のときに地元のギターサークルに入れてもらったと話しましたが、はじめはアンサンブル(合奏)のクラスに入れられました。そこでは単音ばかり弾くわけですが、たとえばAパートとBパートを合わせて弾いたら面白いのではないかと思って実際に弾いていると、先生が「それでは合奏にならないから、大萩君はソロの練習をしましょう」と。私は単なる好奇心から弾いてみたのですが、それを先生は見抜いてソロの勉強をさせてくれたわけです。

奥田 サークルの先生は、大萩さんの才能にいち早く気づいたのですね。

大萩 その先生は萩原博さんといい、学校の先生もされていますが、とてもオープンな方で「大萩君は自分より優れた先生につくべきだ」と判断し、自分の車で福岡にいる別の先生のところまで連れて行ってくれました。

奥田 そうした判断をされた萩原先生は立派だし、大萩さんにとっての恩人ですね。

大萩 はい、恩人の一人です。この方がおられなかったら広い世界に出ることはできなかったと思います。

奥田 いわば、小さな金魚鉢の中から大きな海に放してくれたのですね。

大萩 そうですね。そして福岡の先生も同様に、次のステップに向かう時期が来たら、快く送り出してくれました。

奥田 ご自身の努力や実力もさることながら、人にも恵まれたのですね。それで、高校卒業後はヨーロッパに留学されるわけですが、その決断はどんな状況でされたのですか。

大萩 高校2年生のとき、沖縄で行われた講習会に聴講生として参加したのですが、そのときの先生が先ほどお見せした「DUO2」で演奏されている福田進一さんでした。講習が終わった後、私と村治佳織さんが呼ばれ、高校を卒業したらどうするか聞かれました。同学年の村治さんは「留学します」と即座に答えました。私はそれを聞いて「留学という手があるのか」と思い、調子に乗って「僕も留学します」と答えてしまったんです。でも、具体的にどうすればいいかわからなくて、福田さんに尋ねると「親を説得するのも才能の一つだ」と言われました。

奥田 うまいこと言いますねえ(笑)。

大萩 そうなんですよ。口がうまいんです(笑)。それで私は、母親を説得するための想定問答集をつくったんです。でも、それは不要でした。母は二つ返事で「行っておいで」と言ってくれたのです。

奥田 拍子抜けだけど、ありがたいですね。

大萩 ただ、母は私の留学費用を用立てるのに苦労していました。そこで親頼みだけでなく自分もなんとかしなければと、私は自前の企画でコンサートを開くことにしました。近所の美容院やそば屋さんなどに頼んでコンサートのパンフレットに広告を出してもらい、そのお金で会場を借り、満員となった入場料収入で最初の渡航費用を賄うことができたのです。

奥田 それはすごい。高校2年で自立だ。

大萩 そして、ただ留学するというのでは親も安心できないだろうと思い、いろいろなコンクールに応募しました。それで上位に入り結果を残せば、納得してくれると考えたのです。

奥田 調子に乗って留学を決めたにしては、とてもしっかりとした計画を立て、それをきちんと実行されたのですね。(つづく)

美しい曲を奏でる大萩さんの手と
「プラテーロとわたし」のアルバム

 高名なギタリストの手をじっくり見たのは、これがはじめてだ。「プラテーロとわたし」は、大萩さんのセルフレーベル「MARCO CREATORS」の第一弾作品。メゾ・ソプラノ歌手波多野睦美さんの新訳による歌と朗読、そしてジャケットの表装は銅版画家山本容子さんによるものだ。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第317回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

大萩康司

(おおはぎ やすじ)
 1978年4月、宮崎県生まれ。97年、宮崎県立小林高校卒業後に渡仏。パリ国立音楽院やエコール・ノルマルで学ぶ。ハバナ国際ギター・コンクールで第2位と審査員特別賞「レオ・ブローウェル賞」を受賞し、その後4年間イタリアのキジアーナ音楽院でオスカー・ギリア氏に師事した。ラ・フォル・ジュルネTOKYO、セイジ・オザワ松本フェスティバル、霧島国際音楽祭などの国内主要音楽祭に招かれるほか、最近ではN響(井上道義指揮)と「アランフェス協奏曲」を好演し、またモスクワ、コロンビア、キューバ、台湾での国際フェスティバルに招かれるなど、国際的に活躍している。録音も多く、最近ではメゾ・ソプラノの波多野睦美との「プラテーロとわたし」、チェリスト宮田大との「Travelogue」、オーボエ広田智之との「Cantilene」、セルフレーベル第二弾ヴィラ=ロボス作品集「メロディア・センチメンタル」をリリース。洗足学園音楽大学と大阪音楽大学の客員教授も務める。