コロナ禍によるピンチを 新たな事業のスプリングボードに――第316回(上)

千人回峰(対談連載)

2022/10/28 08:00

神田尚子

神田尚子

タガヤ 代表取締役

構成・文/小林茂樹
撮影/笠間 直
2022.9.2/京都市中京区のタガヤ本社にて

週刊BCN 2022年10月31日付 vol.1944掲載

【京都発】予定より15分ほど早くタガヤ本社に着いた私を迎えてくれた神田尚子社長は、誰よりもホスピタリティに満ち、誰よりも早く気がつく方だった。もちろん、ホテル勤務を経てブライダル企業のトップとなるような人だから、それを職業的なスキルと見ることもできよう。でも、話をうかがっているうちに、いくばくかの訓練を経たにしても、それが生来のものであると気づく。もてなしの心、先を読む冷静な目、そして“浪速のど根性”を兼ね備えた経営者に会うことができた。
(創刊編集長・奥田喜久男)

コロナ禍を機に
SDGsへの取り組みを加速

奥田 神田さんは、ブライダル企業の経営者を務められていますが、このコロナ禍の影響はやはり大きなものだったのでしょうか。

神田 そうですね。2020年の3月から5月までのお客様はほぼゼロでした。当初、年内には収束すると見込んで、キャンセルされたお客様も数カ月後には戻ってこられるだろうと考えていたのですが、これほど長引くとは思いませんでした。

奥田 経営者として、何らかの打開策を講じなければならないですね。

神田 パートさんを含め約300人の雇用を守るには、どうすればよいかと考えました。実はこのコロナ禍が始まった20年2月に私は一般社団法人日本ノハム協会を立ち上げているのですが、そちらの事業に人を割いたり、Paticoというブランドのクッキーをつくるなどして、従業員を解雇することなく、助成金を受けることもなく、なんとか乗り切ることができました。

奥田 日本ノハム協会というのは、どんな団体ですか。

神田 SDGsを中小企業経営に生かすためのコンサルティングを行っています。企業の事業内容や方針をうかがい、SDGsの関連性から取り組みゴール決定のナビゲート、社内セミナーの開催やレポートの発行など、伴走型で支援しております。

 ちなみに「ノハム」というのは、英語で「No Harm」。Harmとは「害」のことで、ノハムは無害であることを象徴する言葉なんです。この世から害をなくしたいという思いで設立しました。SDGsに取り組み、貢献する企業が増えれば、世の中がよくなりますので。

奥田 たいへんな時期に、ずいぶん大きな志を持った団体を立ち上げたのですね。

神田 本当はもっとゆっくり取り組むつもりだったのですが、ブライダルの仕事がなくなったがゆえに、さきほどお話ししたマンパワーの配分も考え、この際、新しいことに挑戦してみようと考えました。

奥田 ピンチを新たなモチベーションに変えたというわけですね。

神田 SDGsやノハムへの取り組みの実践として、Paticoブランドのクッキーづくりに取り組みました。地元の小さな生産農家から仕入れた無農薬野菜などを原材料に、子どもの野菜嫌いをなくすための安全・安心なお菓子をつくったのです。ほぼ無添加のお菓子なのであまり日持ちはしませんが、非常に多くのお客様の支持をいただいてECサイトでもすぐに売れ切れる状態が続きました。そのため、兵庫県西宮市の甲子園に新工場を建設して、そこで生産体制を整えたのです。

奥田 ブライダル企業にお菓子づくりのノウハウがあったのですか。

神田 当社はウェディングにかかわるさまざまな事業を手がけていますが、その多くを内製化し利益率を高める努力をしてきました。そのため、披露宴などの場に欠かせないケーキやスイーツをつくるパティシエが30人も在籍しており、もともとそうしたノウハウはもっていたのです。

奥田 これまでは結婚式場向けに腕を振るっていたパティシエが、一般消費者向けのお菓子に取り組んだというわけですね。

神田 社内でもSDGsの考え方を浸透させてきたので、パティシエたちがその意図を汲んで、いい製品を開発してくれたと思います。

経営者向けセミナーでつかんだ
大きなチャンス

奥田 ところで、神田さんご自身は二代目社長ですが、どんな経緯でタガヤの経営に携わることになったのですか。

神田 私は新卒で南海サウスタワーホテル(現スイスホテル南海大阪)に入社し、そこに10年間勤めました。サービス業は自分に合っていて、仕事そのものはとても楽しいものでした。ところが当時の部長の給料が非常に低いことを知り、愕然としたんです。

奥田 いくら頑張っても、それほど報われないと。

神田 それで私は30歳のときに離婚をしたのですが、同時に会社も辞めてしまいました。

奥田 それはずいぶんと思い切りましたね。

神田 退路を断ち、いろいろな勉強会に参加してチャンスを探りました。そのなかに「経営者のための話し方教室」というものがあったのですが、そこでタガヤの創業者である高谷光正に出会ったのです。

奥田 神田さんはとても饒舌なのに、なぜ「話し方教室」へ?

神田 経営者でもないのに「経営者のための」のほうに惹かれたんです。

奥田 当時からそういう思いがあったからこそ、経営者になることができたのでしょうね。

神田 そこで、参加者が自分の目標を語るのですが、私は「月に100万円稼ぎたい!」と話しました。すると、その教室の最終日に高谷が「うちに来い」といってくれたのです。

奥田 月給100万円でスカウトされたのですか。

神田 いいえ、時給850円でのスタートです(笑)。でも、大企業と異なり、やればやるだけインセンティブがついたのでやりがいはありましたね。サービス業だったら何でもやれる自信がありましたし……。

奥田 神田さんが入社した頃、タガヤの事業規模はどのくらいでしたか。

神田 創業者を含め社員6人の家内工業で、年商は2億円程度。今と異なり、事業内容は貸衣装のみでした。私がタガヤに入社したのは1998年で、社長就任は2012年ですが、その間に結婚式場(チャペル)を京都・大阪・神戸に開き、各種ウェディングのプロデュース、映像制作、レストラン運営、ウェブマーケティング(EC)などに事業領域を広げ、17年には年商30億円を達成しました。

奥田 20年間で売り上げを15倍にしたわけですね。

神田 もちろん、このコロナ禍によるダメージは大きく、雇用を守ることができたとはいえ、売り上げは半減してしまいましたが、それでもなんとかやってこられたという自負はあります。

奥田 事業領域を広げたのは、神田さんの提案ですか。

神田 創業者の高谷は、私の提案をいつも「いいな!」と受け入れてくれました。貸衣装店でなく結婚式場をやりたいと提案したのは、私がBtoBの売り込みをするのが嫌いだったからです。

奥田 こんなに営業マインドのある神田さんが、法人取引を嫌うとは意外ですね。

神田 BtoCで直接お客様と接するのは大好きですが、式場に頭を下げるのが嫌だったんです。それは変なプライドではなく、構造的な問題によるものでした。主だった式場には既に大手の貸衣装店が食い込んで権利を持っており、後発の小さな貸衣装店はそのおこぼれをもらうしかなかったのです。

奥田 神田さんの将来を見据える目と高谷さんからの信頼が、現在のタガヤの姿につながったのでしょうね。(つづく)

LOVE ONE ANOTHER(周りを幸せにしよう)
という言葉

 神田さんは、今年亡くなった稲盛和夫氏の盛和塾に学び、自らの経営哲学、フィロソフィーを社長就任時に策定した。写真は、社員全員に配られる「タガヤ手帳」の最初のページ。事業経営を行っていく上でベースとなる考え方が凝縮されている。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第316回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

神田尚子

(かんだ なおこ)
 1966年5月、大阪市生まれ。89年、大阪成蹊短期大学観光学科卒業後、南海サウスタワーホテル(現スイスホテル南海大阪)入社。98年、タガヤ入社。2012年、同社代表取締役に就任。20年、一般社団法人日本ノハム協会設立。代表理事を務める。著書に『最先端のSDGs「ノハム」こそが中小企業の苦境を救う』(楓書店発行・サンクチュアリ出版発売)があるほか、YouTubeでも情報発信を続けている。