「夢を大きく持て!」創業者の言葉を改めて噛みしめる――第316回(下)

千人回峰(対談連載)

2022/11/04 08:00

神田尚子

神田尚子

タガヤ 代表取締役

構成・文/小林茂樹
撮影/笠間 直
2022.9.2/京都市中京区のタガヤ本社にて

週刊BCN 2022年11月7日付 vol.1945掲載

【京都発】神田さんは創業社長に多くの提言をし、自ら陣頭指揮を執って事業規模を拡大してきた、いわばタガヤの「中興の祖」のような存在だ。最初の結婚式場(チャペル)を京都に開き、創業者が2軒目も京都につくろうとすると、「いや、よりマーケットの大きい大阪を攻めましょう」と返した。そして心斎橋に建設地を取得すると、その隣地には開業したばかりの結婚式場を持たないホテルが建っていた。営業力やアイデアもさることながら、こうした運も神田さんに味方する。やはり“持っている人”なのだ。
(創刊編集長・奥田喜久男)

生涯現役の祖母に学んだ
仕事の要諦と物事の価値

奥田 神田さんの商売のセンスと根性は、誰から伝えられたものなのでしょうか。

神田 私には100歳で亡くなった祖母がいるのですが、その祖母が“稼げる人”だったんです。

奥田 ほう、稼げる人とは?

神田 祖母は戦争未亡人で、祖父がフィリピンで戦死した後、祖父が勤務していた住友金属に入り、役員秘書の仕事をしていました。当時、一定の職業訓練を受ければ、のこされた妻が入社できる制度があったということです。

奥田 そうした制度があったとはいえ、それまで主婦だった女性が大企業の役員秘書になるというのは並大抵のことではありませんね。おそらくその時代の女性の中でも、自立した優秀な方だったのでしょうね。

神田 祖母は、6人いる孫のなかで、私のことをいちばんかわいがってくれました。たとえば、子どもの頃、私だけを一流レストランに連れていってくれて、一流のものに触れさせてくれたのです。

 そして、買い物をする際、高いものと安いものがあった場合、祖母は必ず高いものを選びました。なぜなら「高いものには理由がある」と。

奥田 それはかっこいいですね。なかなか真似できない(笑)。

神田 秘書をしていたときは、毎晩、家に帰ってから時刻表をめくる練習をしていたそうです。秘書の仕事では、役員の出張時の列車の手配が大きなウエートを占めるため、そのスキルを磨いていたんですね。

 私はこの話を聞かされ、「見えないところでどれだけ仕事をするかが、将来の成功につながる」と教えられました。亡くなる前日まで日経新聞を読んでいた人でしたから、まさに生涯現役だったのだと思います。

奥田 神田さんは幼い頃から、おばあちゃんからプロ意識を叩き込まれていたのですね。見込まれていたんだ。

神田 見込まれていたかどうかはわかりませんが、考え方は祖母と瓜二つとよく言われます。

奥田 おばあちゃんの「帝王学」のお話を聞くと、神田さんはなるべくして経営者になったのだと納得させられますね。

 ところで、タガヤ創業者の高谷さんは、なぜ身内ではなく他人の神田さんを後継者に選んだのでしょうか。

神田 かつてタガヤは家族経営だったとお話ししましたが、2006年に専務を務めていた高谷の姉が病気で亡くなってしまったんです。私は入社以来、懸命に結果を出し続けていましたが、その1、2年後に、高谷から専務の後を継いでくれと言われました。

奥田 そのあたりから本格的に経営に参画したのですね。そして12年に社長になられるのですが、このとき創業者の高谷さんはどのようなポジションに?

神田 会長です。でも、その5年後、17年4月に高谷は「夢を大きく持て!」という言葉を私にのこし、67歳で他界しました。

奥田 「夢を大きく持て!」ということは、自分のスケールを超える経営者になれという願いなのでしょうね。

ニューヨークでの散骨をきっかけに
SDGsにめざめる

奥田 ところで、偶然とはいえコロナ禍の時期に神田さんはSDGs、日本ノハム協会の活動を活発化させましたが、そのきっかけというか原動力となったものは何だったのでしょうか。

神田 高谷の死が、一つのきっかけになったことはたしかですね。

 高谷は食道がんで亡くなったのですが、生前、ニューヨークのウォールストリートとハワイのダイヤモンドヘッドの見える場所に散骨してほしいと言っていたんです。亡くなった年の暮れ、遺灰を携えてニューヨークを訪れた私は、当地の国連本部を見学し、そこでSDGsについて盛んに議論されていることを初めて知りました。

奥田 もしかすると高谷さんが、そういう方向性を指し示したのかもしれませんね。

神田 高谷は「世界中にホテル業界やレストラン業界はあっても、ブライダル業界というものは日本にしかない。いずれ淘汰されるのだから次の一手を考えておきなさい」と言っていました。

 これまでの私は、会社を成長させることだけに力を注ぎ、その結果に高谷も喜んでくれていましたが、それがいちばん大事なことなのかと考えるようになったのです。

奥田 これまでと同じ発想で儲けるだけではダメだろうと……。

神田 日本ノハム協会をつくった狙いは、SDGsに取り組むことで中小企業にビジネスチャンスをもたらすことにありました。

 SDGsというと、余裕のある大企業がやっている活動というイメージがありますが、弱者である中小企業の苦境を救う手立てにもなります。その実践例が、私たちがつくったPaticoブランドの無添加クッキーです。いまでは当社の売上高の2割を占めるに至っています。

奥田 それは立派ですね。理念を唱えるだけでなく、きちんと収益に結びつけているのですから。

神田 実は、私はタガヤをリクルートのような会社にしたいと思っているんです。

奥田 「リクルートのような会社」とは、どうイメージしたらいいでしょうか。

神田 お話ししたように、貸衣装専業だった時代、大きな結婚式場に出入りできるのは既存の大手だけで、中小や後発の会社はなかなか食い込むことができませんでした。

 ところがその後、リクルートが結婚情報誌「ゼクシィ」を出版しました。そこに広告を出すと、エンドユーザーであるお客様から直接問い合わせが入るようになったのです。これはまさに弱者にとってのチャンスです。

奥田 既存の仕組みを変えることで、小さな会社や若い会社にも活躍するチャンスを与えられるということですね。その変化の一つがSDGsの動きであると。

神田 はい。今後はSDGsを通じて数多くの中小企業の応援をしたいと思っていますし、将来的にはこうしたソーシャルな活動と営利事業の境目が希薄になってくるのではないかと考えています。

奥田 さまざまな社会の構造が変化する時代、たいへんなことがまだまだ続くと思いますが、ますますのご活躍を期待しています。

こぼれ話

 男女を問わず、人には体から醸し出す雰囲気がある。それをオーラと称する人がいる。波動ともいう。私の場合は、どういうわけか体温も感じる。きっと多くの方がそうだろうが、それを確認したことがないので確信はないけれど……。初対面で名刺交換をする時には必ず温度を感じている。それは物理的な体温なのか、心のエネルギーが発散しているのかは定かではない。長年の友人に久しぶりに会った時に「おや、体温が違っている」と感じることもある。

 少し奇妙な事柄から書き出してしまったようだが、それにはワケがある。今回登場していただいた神田尚子さんとの初対面で、不思議な力を感じたからである。何か私の体を突き抜けるような視線の力を感じたのだ。対談はそうした心の環境の下で始まった。『千人回峰』で300人を超える方々に面談してきた。その第一回目(2007年1月5日号)にお会いしたのは、千葉三樹さん。米GE社で副社長を務め、帰国後、エルプという会社を創業した方だ。スタート時から対談のテーマは「人とはなんぞや」である。その時に感じた千葉さんの体温は今も感覚知で残っている。神田さんに感じた体温は、それとは異なる。生き方の違いと同様に、私が感じる体温は人それぞれだ。

 話は少し以前にさかのぼる。伊勢神宮の式年遷宮御神宝太刀を打ち、奉納した刀工・吉原國家さん(『千人回峰』118回目に掲載)と会った時、「鋼(はがね)は叩いて強くしていく」と教えてもらった。このことはすでに知識としてもっていた。しかし、実際に数えきれないほど打ち込んだ刀工の言葉として聞くと、心に沁みる度合いが深い。吉原さんはきっと、打っている間に鋼の変化を感じているのだろう。その感覚は鋼を打ち込む数を重ねるうちに堆積するのだろう。こうした経験が人の感性を培っていく。

 神田さんと対談を進めるうちに、この強い視線は和らいできた。視線の強さは初対面での警戒心であったのか、それとも人間観察の力であったのか。いずれも外れてはいないだろう。神田さんはこれまでに幾人の方々と名刺を交換したのだろうか。ホテル勤務で出会った人。結婚式場の経営者として会った人。京都の経済人の集いで出会った人。人を瞬時に見抜いていく技術というか特技はこうした経験から鍛えられてきたのだろう。その力は「祖母から授かった」ともいう。こうした眼力は遺伝子かもしれない。人に備わっている、コンピューターでいうOSは遺伝子で継承されると、私は考えている。それは身近な人や、書籍などから得たお作法もあると思うが、その多くは遺伝子で継承され、“みがく”と輝いてくる、と半ば自分に言い聞かせている。輝かないのは磨き方が足らないのだ、ということになる。

 吉原國家さんの話に戻す。御神宝の話の中で「依頼者から頂く鋼はそんなでもないんですよ」と。この言葉が誤解を招かないように、添書きをしたい。無監査刀匠(最高位)の吉原さんのレベルでの呟きである。世人が立ち入る隙間はない。私はその時「そうなんですか」と呟いた。すると「はい」と相槌を打たれた。そこから話は佳境に入った。そんなでもない鋼を打ち込んで極上にする、と私には聞こえた。素材の質を見分けられるということは、“わざ”で質をも鍛え上げる、ということなのか、と思った。その言葉を聞くまでは、素材がすべてと思い込んでいた。が、素材を吟味する力を鍛えるということは、与えられた素材に価値をつける“技”を磨くということなのだ。

 神田さんとの出会いは解良喜久雄さん(『千人回峰』105回目掲載)の紹介がきっかけだ。神田さんと話しながら心に宿った印象、こうして原稿を綴りながら対談風景を振り返りつつ言葉の数々を醸成している今、ふと「神田流人材育成術」の免許皆伝者なのだと腑に落ちた。さてさて、私も文章力をさらに鍛え上げなければならない。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第316回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

神田尚子

(かんだ なおこ)
 1966年5月、大阪市生まれ。89年、大阪成蹊短期大学観光学科卒業後、南海サウスタワーホテル(現スイスホテル南海大阪)入社。98年、タガヤ入社。2012年、同社代表取締役に就任。20年、一般社団法人日本ノハム協会設立。代表理事を務める。著書に『最先端のSDGs「ノハム」こそが中小企業の苦境を救う』(楓書店発行・サンクチュアリ出版発売)があるほか、YouTubeでも情報発信を続けている。