加藤さんにヨドバシカメラの今昔についてお話をうかがっていると、ご自身のことより社長のことばかりが口をついて出てくる。もちろん、創業経営者である藤沢昭和社長の凄さは私も重々承知しているし、加藤さんの話を聞いて改めて感心することも多い。でも、そういうこととは、ちょっと違うのだ。「社長のことを愛しているでしょう?」「愛してますよ」。一瞬の躊躇もなく返ってきたこの一言が、長年ナンバー2として経営を支えてきた加藤さんの本音であり、おそらく矜持なのだ。(本紙主幹・奥田喜久男)

2019.6.11/BCN22世紀アカデミールームにて

お客さんを背負っていれば会社は潰れない

奥田 豊かな品揃えがヨドバシカメラの強みにつながったというお話でしたが、そこに至るまでにはずいぶん苦労されたのでは?

加藤 もちろんあります。いろいろないきさつがあるのですが、まずメーカーとの直取引はできません。初めのうちはメーカーはまったく相手にしてくれませんから、それこそ現金を持って、一次問屋、二次問屋によく仕入れに行きました。それで、それを安く売るわけです。すると、メーカーは当然止めに入りますから、そこでの摩擦がかなり長い間続きました。

 現金問屋から調達しても、その商品をメーカーが店頭で買って行ってしまうこともありました。品物がなければ商売になりませんから。

奥田 だいぶ意地悪されたわけですね。そうした状況は、どのくらいの期間続いたのですか。

加藤 ざっと数年ほどの間ですね。でも、藤沢社長は「メーカーの言うことを聞いていても経営はできない。お客さんを背負っていれば会社は潰れない」と、一切言うことを聞かずに頑張って、商品を集めました。そのうち、メーカーもやむを得ないという方向に切り替わっていったんです。カメラの次に扱う時計や家電製品などでも、そういう形になりました。

奥田 メーカーとの直取引が円滑にできるようになってきたのは何年頃ですか。

加藤 1975年に新宿西口本店がオープンしましたが、カメラはそれから2、3年後くらいです。もちろん、全てのメーカーが同時というわけではなく、強いメーカーであるほど時期的には後になります。

奥田 それはそうでしょうね。

加藤 いろいろと苦労しましたが、お客さんがついてきてくれたことで、徐々にこのスタイルが浸透してきたわけです。

画期的なアイデアで業界の常識を打ち破る

奥田 藤沢社長や加藤さんたちは、流通の形を変革してこられたのですね。

加藤 変えてきました。カメラの場合は、最初に写真用品売場というものをつくったのです。そのときに社長が考えたのはスーパー方式。それまで商品はすべてカウンターの中にあって、お客さんが欲しいといったときに出すという形でした。

 それをフィルムは温度を17℃に保ったショーケースに入れて、お客さんが自由に持っていけるようにする。印画紙も並べる。薬品も並べる。お客さんが商品をカゴに入れてレジに持ってくるという商売を、一番最初にやりました。

奥田 今では当たり前ですが、あの頃は……。

加藤 当時、カメラは今よりも高級品ですから、関連商品を含めてお客さんには決して勝手に触らせませんでした。ところが、西口本店ができたとき、カメラ売場に三脚を並べてその上にカメラを装着して、好きなように見せたのです。これを当時はお立ち台といい、望遠レンズをつけて覗けるようにもしました。また、カウンターの上にも見本のカメラを並べて、全部お客さんが勝手に触れるようにしたのです。そういうことを考えたのも藤沢社長です。

奥田 業界の常識を打ち破った、と。

加藤 それまでカメラ店は、汚したり傷つけたりしないように白い手袋をした店員がカメラを持ち、接客するという商売だったわけです。それがヨドバシでは勝手に触れる。買う・買わないは別にして、お客さんにとっても画期的な出来事でしたね。

奥田 藤沢社長はすごいアイデアマンですね。

加藤 社長は、すべて効率で考えるんですよ。天井をメッシュにすることも当店が一番最初に始めたんです。ああしておけば売場の改装をするときに、照明の位置を好きなように変えられます。わざわざ業者を呼んで工事する必要がないわけですね。

奥田 CMで流れる「丸い緑の山手線」の歌は、誰が考えたのですか。

加藤 あれも社長です。曲は、よく替え歌に使われるリパブリック讃歌で、誰が使ってもいい。それに社長が自分で詞をつけました。東京だけでなく大阪とか博多とか、全部その地域にちなんだ歌詞になっています。それだけでなく、CMそのものも自分でつくります。大手の広告代理店に頼むと金がかかって仕方ないからと、店舗で子会社の製作会社に社長が指示を出して撮影するんです。

 それにいまだに、店づくりも社長自ら行います。什器を用意させ、図面なしで設置場所を指示するんです。それで、オープンの日の朝までに間に合わせてしまう。

奥田 それはすごい。ところで加藤さんは、ナンバー2としてどんな役割を担っていたのですか。

加藤 最後は営業と販売のトップでしたが、得意だったのは仕入れですね。かつて私は社長に逆らってばかりいて、“万年課長”で有名だったんです。ところが当時の販売本部長が若くして急死し、その後を託されてしまったため、部長を飛ばしていきなり本部長になってしまいました。そこからだいぶ変わりましたね。

奥田 そのとき何歳でしたか。

加藤 35歳くらいですね。そのポジションにいると、社長がこういう苦労をしているなというのが分かるじゃないですか。それをなんとかしなければならないと。社長の思いを伝えて、みんなに実行してもらう。仕入先をうまくコントロールして、社長とメーカーとのコミュニケーションを図る。いくら優れた社長でも、一人で全てできるわけではありません。そこをどうフォローするかということを常に考えてきましたね。

奥田 藤沢社長とは何歳違うのですか。

加藤 14年の差ですね。だから当時の社長は49歳。

奥田 まだバリバリの頃ですね。

加藤 私が役員になったのが38歳で、66歳まで28年間仕えましたから。

奥田 28年間、役員を務めるというのはすごいですよ。立派だなぁ。ところで、人生これからですが、今後は何をされますか。

加藤 今朝も4時起きで5時に家を出て、2時間半散歩して、朝飯を食べて、その後プールに行って1.5キロくらい泳いで、戻ってきて昼飯を食べて、またちょっと1時間くらい散歩して、あとは家でずっとゆっくりしている。そういう生活ですよ。

奥田 すごいですね。ゴルフは?

加藤 ゴルフは週に1、2回。去年は年間90回。

奥田 とてもイキイキした顔をしておられますね。

加藤 ストレスがないですから。現役のときは、十二指腸に穴が開くほどストレスがたまりました。でも、藤沢社長は加藤にストレスがたまるとは思っていなかったみたい(おゝ笑)。
 

こぼれ話

 秋の早朝5時はまだ暗い。行き交う人の姿もぼんやりとしか見えない。谷中霊園や上野恩賜公園辺りを歩き始めて10年は超えた。私は気の向いた日に散歩するのだが、加藤忠行さんは違う。定年退職をされてから時折お会いするたびに「きょうもですか」と問えば、「はい、5時に歩いてきました。気持ちいいですよ」とハキハキとした返事が返ってくる。「毎日ですか」と聞けば、「はい、毎朝ですよ」とニコニコ顔が揺れる。お会いするたびに肌の色つやは若返っていき、同い年とは思えなくなった。私も早く引退しよう。

 それはさておき、加藤さんは在学中のアルバイトから始まって定年までヨドバシカメラで勤めあげてきた人なので、履歴書を書いたことがないはずだ。社名にカメラとあるので月並みな質問をすると、「カメラにはまったく興味がありません」とすげない返事。同席していたニコン販売会社の元社長の西岡隆男さんが「これだもんね」。こんなふうに、たわいのない会話を楽しみながら定例会は盛り上がる。

 大型家電量販店は戦後の創業期から現在に至る。その数は市場の拡大とともに収れんされ、ヨドバシカメラは勝ち組となった。ところが21世紀に入ってからは市場をエリアで囲い込む時代からインターネットのネットショップで需要を吸い込む構造に変化した。ネット販売は進化を続け、個人と消費者全体の購買情報をシステムで分析し、個と全体の需要の流れを人工知能が予測するようになった。さらに進化して、一人一人のニーズの細部に応えられるのか、かつリアルタイムに応えられるのか、結果として高い満足度を得て、リピートにつながるのかなど。“仕組みづくり”という原点に回帰した。「ねえ加藤さん、どう思う?」と矛先を向けると、「おれ、知らない。もう仕事やめたから」の一点張り。頑固と信念の人は紙一重なんだと、感心しながら楽しいひと時を味わっている。

 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第244回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。