黎明期のパソコンに魅せられ ソフトウェア開発の世界へ――第274回(上)

千人回峰(対談連載)

2021/01/15 00:00

下川和男

下川和男

イースト 取締役会長

構成・文/小林茂樹
撮影/松嶋優子
2020.11.17/東京都渋谷区のイーストにて

週刊BCN 2021年1月18日付 vol.1858掲載

【代々木発】就職難の時代、せっかく入社した富士通系の会社をわずか数年であっさりと辞め、メインフレームの世界からパソコンの世界に舵を切った下川さん。「どうして?」と尋ねると、「パソコンがやりたかったから」と一言。もちろん、起業に際してはさまざまな検討を重ねたに違いないだろうが、「これがやりたいから」とか「これが好きだから」という単純明快な理由が最も強力で、その後の事業展開を左右する気がする。下川さんは言う。「僕はしつこいんです。一度始めたらそれをずっとやるんです」と。
(本紙主幹・奥田喜久男)

2020.11.17/東京都渋谷区のイーストにて

MS‐DOSで動く
日本初のワープロソフトを開発

奥田 現在、下川さんが会長を務めておられるイーストですが、その社名にはどんな由来があるのですか。

下川 Far East(極東)という言葉からとったものですが、日本語に強いソフトウェア会社にしようと考えたことから、こう名づけました。

奥田 なるほど。その「日本語に強い」というお話は後々うかがうとして、この業界に入られたきっかけからお話しいただけますか。

下川 大学を卒業した1976年は第二次オイルショックの後で、工学部を出てもコンピューター業界以外はほとんど就職先がありませんでした。最初に就職したのは富士通SSLという会社で、この会社は通産省が主導した「日本ソフトウェア」のエンジニアを富士通が引き取った会社でした。当時、FACOM MシリーズのOSやコンパイラなどの一部を開発していました。

奥田 富士通SSLでは、どんな仕事をされていたのですか。

下川 技術と営業を兼務していました。この会社は優秀なエンジニアが多く、とても勉強になりましたね。

奥田 でも、そこからスピンアウトされて……。

下川 はい。メインフレームの仕事は面白いものではなく、パソコンをやりたいと仲間5人でベンチャーを立ち上げました。それが1981年のことですね。

奥田 ということは、入社5年で起業されたと。ずいぶんと早いですね。

下川 立ち上げた会社はエイセルといい、日本初のMS‐DOSパソコンで動くワープロソフト「JWORD」を開発しました。

奥田 Windowsが出現するだいぶ前ですね。当時としては画期的だったのではありませんか。

下川 「一太郎」が出る前のワープロソフトです。これが大ヒットして、100割配当を2回もしたんです。

奥田 100割配当ですか。10割ではなくて?

下川 100割、つまり10倍です。私は20万円出資していたので、200万円を2回もらいました。

奥田 それはすごい話ですね。

下川 でも、なぜそんな無茶な配当をしたかというと、この会社には75%出資している大株主がいたからなのです。5人の創業メンバーの持ち株を合わせても、残り25%しかありません。このとき、資本というものの大切さが身にしみてわかりました。

奥田 いくらいいものをつくって稼いでも、利益を吸い上げられてしまうと。

下川 そうですね。そこで、JWORDのプログラム資産もすべて手放して、裸一貫で再度会社を立ち上げることにしました。それが、1985年に創業したイーストです。

創業以来
36期連続黒字を達成する

奥田 就職して5年で起業して、さらに5年後に二つめの会社を立ち上げられたということですが、いきさつをうかがうと経営的にはなかなか苦しかったのではないですか。

下川 そう思われるかもしれませんが、実は創業以来36期連続黒字なんです。

奥田 初年度から利益ですか。それはすごい。うらやましい!

下川 それほど多くはありませんが、配当も毎年しています。

奥田 立ち上げの時期は、どんな状況だったのでしょうか。

下川 エイセルの時代からパソコンがらみの仕事をしていたためアスキーとのおつき合いがあり、イーストを設立してからも「これからもソフトをつくってよ」と注文してくれたことが大きかったですね。三菱電機のMULTI16の統合ソフトをPC9801シリーズ向けに移植した「A1優(エースワン・ユウ)」などを手がけたのです。当時、発注元であるアスキーのソフトウェア企画部の部長を務めていたのが古川亨さん、次長が成毛眞さんと佐藤一志さんでした。

奥田 それは、そうそうたるメンバーですね。ということは、マイクロソフトの日本法人ができる前ですね。

下川 イーストの創業が1985年で、日本マイクロソフトはその翌年の86年にできているんです。アスキーにいた彼らはマイクロソフトに引き抜かれる形となって、古川さんは初代社長に就任します。それ以来、当社はマイクロソフトとのつながりが強くなり、少し資本参加してもらっている関係です。

奥田 なるほど。それで創業以来、ずっと右肩上がりで成長を続けてこられたと……。

下川 いいえ、ずっと黒字をキープしてきたとはいえ、ピークは2000年頃のネットバブルの時期ですね。8人でスタートした会社ですが、その時期には社員140人、売上は15億円ほどありました。ここ10年ほどは、社員100人、売上12億円程度で推移しています。

奥田 2000年頃がピークだとすると、パソコン本体の売れ行きにリンクしているような形なのでしょうか。

下川 そうですね。私たちはマイクロソフトとともにWindowsソフトをたくさんつくってきたのですが、1995年頃からインターネット系のアプリを数多く手がけるようになりました。

 ご存じのように、Windows98の発売から2000年頃にかけて、インターネットの普及が急速に進みました。そんなマーケットの流れの中で開発に携わってきており、その結果、現在の状況に至っているのだと思います。

奥田 それにしても立派な業績だと思いますが、4年前に社長の仕事をバトンタッチされてからも精力的に動かれていますね。

下川 他の創業者の多くは、たくさん儲けを出してすでにイグジットしています。私がパソコンの時代からこれまでずっとやっているのは、わずかな利益しか出せずイグジットできなかっただけのことです(笑)。

奥田 いやいや、相当にこの仕事がお好きなんですね。

下川 うーん、そうかもしれません。

奥田 何が好きで、この仕事に打ち込めるのでしょうか。

下川 私は「ムーアの法則」が好きなんです。

奥田 ムーアの法則……、ですか?(つづく)

42行聖書のレプリカとグッドデザイン賞の盾

 左にあるグーテンベルクの42行聖書のレプリカは、下川さんがフランクフルトのブックフェアの視察に赴いたとき、その生誕の地マインツで入手したもの。そして右にあるのは、縦書きWeb普及委員会のメンバーとして受賞したグッドデザイン賞の盾だ。いずれも、下川さんの成し遂げてきた仕事を象徴するものといえるだろう。

 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第274回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

下川和男

(しもかわ かずお)
 1952年1月、佐賀県佐賀市生まれ。76年、武蔵工業大学(現、東京都市大学)工学部電子通信学科卒業後、富士通SSL入社。81年4月、エイセルの設立に参加。85年5月、イーストの設立に参加。取締役営業部長に就任。2006年3月、同社代表取締役社長に就任。16年6月、同社取締役会長に就任。一般社団法人日本電子出版協会副会長も務める。