コロナ禍の試練に直面しながらも 音楽の持つ大きな力を社会に伝え続けたい――第273回(下)

千人回峰(対談連載)

2021/01/08 00:00

平井俊邦

平井俊邦

日本フィルハーモニー交響楽団 理事長

構成・文/小林茂樹
撮影/松嶋優子
2020.11.18/東京都杉並区の日本フィルハーモニー交響楽団事務所にて

週刊BCN 2021年1月11日付 vol.1857掲載

【東京・杉並発】「華やかに東京五輪が行われた」と歴史に綴られるはずだった2020年はコロナ禍で暗転した。誰もが先の見えない不安と焦燥感にさいなまれ、「不要不急」という言葉がこれまでにないほどネガティブな形容として世の中に喧伝された。そのターゲットの一つが音楽、演劇などの芸術活動であり、その経営基盤の脆弱さゆえに大きな傷を負い、また斃れていった。しかし、こうした文化は、一度失われてしまえば回復することは難しいと平井さんは語る。失って嘆く前にできることはまだあるはずだ。
(本紙主幹・奥田喜久男)

2020.11.18/東京都杉並区の日本フィルハーモニー交響楽団事務所にて

財政立て直しを果たしたにもかかわらず
再び債務超過の危機に

奥田 2020年は新型コロナウイルスにより社会経済のすべてが甚大な影響を受けましたが、日本フィルの状況はどのようなものでしたか。

平井 2月26日に政府から出された文化イベント自粛要請を受け、その後4か月、年間140のオーケストラ公演のうち、70公演が中止になりました。再開してからもこれまで通りとはいかないため、非常に苦しい状況ですね。

奥田 せっかく財政の立て直しができて、公益財団法人になれたというのに残念ですね。

平井 そうですね。2019年には13年ぶりのヨーロッパ公演で成功し、演奏力も世界的水準にあることが認められた矢先のことでしたから……。

 財政的には年間4億円の赤字が見込まれており、日本フィルのような大都市自主運営型の楽団は債務超過に陥る可能性があります。近年は財政状況が好転し、年間2000万円程度の黒字を計上できていましたが、元の状態に戻ったとしても、4億円の赤字を消すためには20年もかかってしまいます。

 ちなみに自主運営型楽団である日本フィルの総事業費は年間約13億円ですが、演奏料収入・入場料収入9億円、国からの助成金1億円、企業からの寄付・協賛金2億円、個人からの寄付金および民間助成金1億円でこれを賄う形となっています。実に70%を演奏関係の収入で賄っていることになります。

奥田 その内訳をうかがうと、いかに公演の中止が大きな影響を及ぼすかがわかります。

平井 また、今回のコロナ禍で失われたのは金銭的なものだけではありません。精緻なアンサンブルを奏でるためには合同練習が必須なのですが、自粛期間中、楽団員は自宅待機で個人練習をするしかありませんでした。公演が再開されてからも舞台上でソーシャルディスタンスを保つ必要があるため音の時差が生じる等、これまでとは感覚が異なり、以前の演奏水準に戻ることがなかなか難しい状況です。また、大きな編成の曲もできませんし、指揮者はじめ外国人アーティストの来日も制限されています。

奥田 財政的な問題と技術面の問題の両方が生じてしまったのですね。

平井 自粛期間が長引くにつれ、オーケストラをはじめ各種の文化芸術団体が国などに対してその苦境を訴えました。ところが社会の一部からは「文化・芸術は不要不急」「好きでやっているのになぜ税金が使われるのか」というような強い非難の声が浴びせられたのです。文化・芸術に対する社会の認識が想像以上に低いことを痛感しましたが、一度失われてしまえば回復は難しいということをもっと社会に訴えていかなければならないと思いました。

観客がいることの意味と
その幸せを改めてかみしめる

奥田 日本フィルの公演の再開はどのような形で行われたのですか。

平井 まず、6月10日に無観客(有料ライブ配信)で行いました。そして有観客で半年ぶりの東京定期演奏会を7月10日、11日にサントリーホールで行いました。もちろん、舞台上ではソーシャルディスタンスを守り、客席も一席おきの市松模様です。

 無観客のときでも音が出ただけで感激しましたが、有観客のときは「お客様がいるということはこういうことなんだ」と改めて実感しました。楽団員が演奏する、お客様の反応が楽団員に伝わる、すると楽団員の心が高ぶりそれが演奏に反映され、さらにお客様に伝わる……。そうした心の交流が生まれることで、音楽に技術を超えた魂が宿り、エネルギーが爆発すると思うのです。

奥田 スポーツの世界などでも「観客から力をもらう」とよくいわれますが、オーケストラでも観客の存在は大きいのですね。

平井 前に「被災地に音楽を」プロジェクトについてご紹介しましたが、現地の人々を力づけようと演奏に赴いた楽団員は口々に「自分たちのほうにこそ返ってくるものがある。かえって力づけられた」と言います。厳しい状況だからこそ、そうしたことに気づかされたといえるでしょう。

奥田 ところで、コロナ禍の収束時期はなかなか見えませんが、日本フィル、そしてオーケストラ全体の存続のため、平井さんはどのような方策を考えておられるのでしょうか。

平井 オーケストラのほとんどは公益財団法人ですが、公益財団法人は年間の収支をほぼ均衡させなければならないという「収支相償の原則」があります。そのため、株式会社のように利益を内部留保して、今回のような大きな損失に備えるということができません。さらに、正味財産300万円を2年連続で下回ると公益財団法人は解散しなければならないという規定があり、日本フィルをはじめいくつかの自主運営型オーケストラは解散の危機に瀕しています。今回のコロナ禍は特殊なケースであり、まずこの2年の解散ルールにモラトリアムを設けることが急務だと考えます。

奥田 コロナ禍による債務超過は、経営努力のレベルではないですからね。

平井 もう一つは、中小企業や個人事業主向けの「資本性劣後ローン」を公益財団法人にも活用できるよう、現在、国に働きかけをしているところです。

 資本性劣後ローンというのは、日本政策金融公庫や商工組合中央金庫が行っている貸付の一種で、一般の借入とは異なり、負債ではなく自己資本に組み入れられるというメリットがあります。つまりこのローンを利用することができれば、債務超過の状況から逃れ、投資や融資が引き出しやすくなり、解散を回避できる可能性が高まるのです。

奥田 そうした制度的な支援の拡充は、本当に不可欠ですね。

平井 もちろんそのほかにも、キャッシュフローを確保し事業を継続するために、国の給付金や助成金、民間財団からの助成金をフル活用する一方、楽団員自ら給与カットや定期昇給や賞与なしを申し入れ、その上で社会に対しても寄付のお願いをしています。

奥田 楽団員の方々は、演奏面でのご苦労に加え、経済的な負担もされているのですね。

平井 日本フィルは大きなスポンサーを持たない自主運営型楽団ですから、もともと平均給与は上場企業の若手社員並みとかなり低いのです。今回の給与カットの件もそうですが、一流の芸術家への処遇がこれでいいのかという思いはあります。

奥田 ところで、平井さんご自身は、何か楽器を演奏されるのですか。

平井 まったくできません。できるのは、口三味線くらいで(笑)。ただ、音楽の素人だからこそ現場を大切にして、プロの話に耳を傾けるようにしました。音楽のことを本当にわかっているのは楽団員であり、私にとってはリスペクトすべき雲の上の存在です。ただ、ときには理事長として「それは企業の常識とは違いますよ」と経営面の指摘をすることもあります。それが、言葉では表現できない音楽の持つ力を、社会に伝えることにつながると思うのです。

奥田 今日は、大変いいお話を聞かせていただきました。しばらくは大変な日々が続くでしょうが、日本フィル、そして日本のオーケストラの存続発展のためご尽力いただければと思います。

こぼれ話

 昨年のことだ。「声は言葉の乗り物」という一文を目にした。以来、この一文を長く深く考え続けた。“声”も“言葉”も形がない。無形のものに無形の価値をのせるって、果たして重さはあるのだろうか。もちろん物理的な重量はないが、心に染み入ったとき、人それぞれに重みがある。なるほど、声は言葉の乗り物に違いない、と思った。今、このコラムを書いている。ヘッドホンからキース・ジャレットのケルンコンサートが流れている。原稿を書くことがいやな私は、もう長くこの曲でパブロフの犬と化している。音って何だろう。音のプロ集団・日本フィルの理事長、平井さんと話した。

 東日本大震災当日はゲネプロの最中であった。驚いたが、動揺はなかった。翌日は予定通り公演し「会場の皆さんと感動を共有した」。香港ツアーも予定通り進めた。この決定は、今もって批判はあるという。続けて平井さんは語る。「リーダーの判断はこうしたときに胆力が問われるのではないでしょうか」。オーケストラはおよそ80名で一つの楽曲を奏でる。指揮者はその体内で楽曲を理解し、80の楽器で解釈した価値を表現する。言い換えると、80の感性で一つの価値を生み出すわけだ。全員が生き物だ。80を一つにすることはできるのだろうか。平井さんはいう。「演奏が始まりますよね。音が観客の皆さんに伝わります。すると、その音に乗って皆さんの熱気が演奏者に伝わるんです。心に染み入る音は会場の皆さんが生み出すんです」。話を聞く私の頭には、熱気が充満したサントリーホールの館内が浮かんだ。

 以前、負の資産を抱えた日本フィルは演奏技術の向上とともに、黒字経営の交響楽団へと成長した。さらなる飛躍を目指すところにコロナ禍だ。売り上げの7割が演奏関連。深傷を負った。正味財産300万円を2年連続で下回ると、公共財団法人は解散しなければならない。平井さんの経歴を見るとバンカー出身の経営者だ。「潰してはならない。文化を醸成する交響楽団は潰してはならない」。このフレーズの対談風景を記そう。交響曲第9番『歓喜の歌』の様相だ。後日、私の携帯に平井さんから連絡が入った。「資本性劣後ローンの導入が決定しました」と。明るい声だ。これで日本フィルはさらなる高みを目指せる。これこそリーダーの判断だ。  
 


心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第273回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

平井俊邦

(ひらい としくに)
 1942年、東京生まれ。65年、慶應義塾大学経済学部卒業後、三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)入行。取締役香港支店長、本店営業第二部長等を歴任。96年、常勤監査役。98年、千代田化工建設代表取締役専務に就任。2001年、インテック取締役副社長、06年、インテックホールディングス取締役副社長・Co-CEO等を経て、07年、日本フィルハーモニー交響楽団専務理事に就任。14年、同理事長に就任。