音楽の不思議な力に魅せられ オーケストラの経営立て直しに奔走――第273回(上)

千人回峰(対談連載)

2020/12/25 00:00

平井俊邦

平井俊邦

日本フィルハーモニー交響楽団 理事長

構成・文/小林茂樹
撮影/松嶋優子
2020.11.18/東京都杉並区の日本フィルハーモニー交響楽団事務所にて

週刊BCN 2021年1月4日付 vol.1856掲載

【東京・杉並発】根っからの慶應ボーイで、元エリートバンカー、おまけに長身の平井さん。ちょっとジェラシーを感じてしまうくらい、スマートでカッコいい経営者なのである。でも、お話をうかがっているうちに、スマートなだけでなく熱い心の持ち主であることがわかってきた。「人がやったことをそのままやるのは嫌い。つい、人が踏み込んだことのない新しい道を求めてしまう」と平井さんはおっしゃる。だからこそ、多彩なキャリアのそれぞれの局面で難題の壁を乗り越えることができたのであろう。
(本紙主幹・奥田喜久男)

2020.11.18/東京都杉並区の日本フィルハーモニー交響楽団事務所にて

プロの高度な技術こそが
生き残るための条件となる

奥田 平井さんは銀行で数々のキャリアを積み重ね、エンジニアリング会社やIT企業といった異業種でも辣腕を振るわれてきました。その経営のプロが、どんな経緯でオーケストラの理事長に就任されたのでしょうか。

平井 日本フィルハーモニー交響楽団(日本フィル)は、1956年創立の歴史あるオーケストラですが、当初は民放の専属オーケストラとして発足し業界に新風を吹き込みましたが、1972年にはその契約が打ち切られ、法廷闘争の末、1984年に和解、それ以来大きなスポンサーを持たずに自主運営を続けてきました。しかしバブル経済崩壊の中で経営は失敗、そんな状況で、2005年3月末には3億4900万円の債務超過となるなど、厳しい経営状態にさらされていたのです。

奥田 演奏活動を続けられないかもしれない、と。

平井 はい。一般企業であれば倒産寸前の状態です。そんなとき、企業再建の話を聞きたいと私に声がかかり、アドバイザーとして月1回の経営会議に出席するようになりました。そして、2007年に常勤の専務理事に就任したのです。

奥田 経営の立て直しに白羽の矢が立ったわけですね。具体的には、どんな施策を打たれたのですか。

平井 まず、労働組合主導の「運営」から理事会主導の「経営」にガバナンスを変えました。これは、綿密な収益改善策や長期の運営ビジョンをつくるために必要だと考えたからです。そして、経営方針として「あくなき演奏力の向上」と「財政基盤の強化」を掲げました。このうちの「あくなき演奏力の向上」は、プロの演奏家というものは、常に技術を磨き、向上していかなければならない、市場の競争にさらされているということです。アマチュアと同じならば、存在価値はないわけですから。

奥田 なるほど。真のプロであることが生き残りの条件になるわけですね。

平井 実は、エンジニアリング会社の再建に携わったときも同じことを考えました。当時、その会社は大変苦しい経営状況でしたが、世界で五指に入るような優れた工事技術を持っていました。このとき、日本のクリーンエネルギー政策を今後推進していくために、この会社をどうしても救わないといけないと思ったのです。つまり、企業の生死を分けるのは技術の競争優位性にあり、それがなければ市場から退出させられる。音楽団体であっても、それは例外ではないわけです。

東日本大震災の当日
公演開催の重い決断

奥田 ということは、音楽団体の経営も一般の企業経営も同じであると捉えていいですか。

平井 優れた技術が求められるというところは共通していますが、やはり違いますね。一般企業の立て直しは自身が立てた戦略に基づいて行うわけですが、同じように戦略を立てるにしても、音楽団体の場合は、年間の事業費を本業(演奏料収入)だけで賄うことができません。音楽を支えている人たちのおかげで救われている部分が非常に大きいのです。

奥田 具体的には?

平井 2006年に公益法人認定法ができて、音楽団体も公益財団法人への移行が求められることになり、その期限が2013年11月末と定められました。いろいろな策を講じたものの、リーマン・ショックや東日本大震災の影響で債務超過からなかなか抜け出せません。債務超過では公益法人に移行することはできず、財団解散の危機が迫っていたのです。そんなとき「日本フィルを解散させてはならない」という多くの個人・法人から寄付金が集まり、2013年3月期決算で10年ぶりに債務超過の状態から脱却できました。

奥田 ファンの熱意と力は、予想以上に大きなものだったわけですね。

平井 演奏力を向上させ、ファンを増やしてきた楽団員やスタッフの努力もありましたが、経済合理性を超える音楽の力を実感しました。感謝の気持ちでいっぱいです。

奥田 東日本大震災のときも、大きな決断をされたと聞いています。

平井 震災当日の2011年3月11日、日本フィルの定期演奏会が東京のサントリーホールで予定されていました。19時開演予定で、震災が発生した14時46分はゲネプロ(本番会場での通しリハーサル)を始める直前でした。幸い会場のサントリーホールは耐震対策が十分に施された構造で無傷でしたが、開催に踏み切るには安全性の確保と品質、つまり演奏レベルが担保されることが条件となります。そこで、交通機関の混乱によりお客様の来場手段は限られていましたが、指揮者も楽団員も無事で、ゲネプロがきちんとできて、一人でもお客様が見えれば開演しようと決断したのです。

奥田 とても覚悟のいる意思決定ですね。

平井 そうです、覚悟が大事です。今だから淡々と話せますが、当日の決断までの心の葛藤は大変なものがありました。「他の団体がみんな中止しているのに日本フィルだけどうして開催するのか」と、その後ずいぶん批判を浴びましたが、決断するときは判断の基準を周りに合わせるのではなく、自分たち自身の問題として、どれだけ深く考えられるかが大事だと心に言い聞かせました。

 震災当日の11日は77人、翌12日の公演には758人のお客様が来場してくださいました。

奥田 当日はもちろん、翌日も交通機関の混乱は続いていましたが、あの状況でそれだけ多くのお客様が来られたことの裏には何があったのでしょうか。

平井 あれだけひどい津波の映像を何度も見せられて、みなさんは「自分はこのままでよいのか、何かしなければいけないが、どうしたらいいかわからない」という気持ちになられたのではないでしょうか。会場に来られたのは「祈り」のためかもしれませんね。

奥田 「祈り」ですか……。それも音楽の持つ不思議な力ですね。

平井 それから震災の1週間後には、香港芸術祭での公演が予定されていました。原発事故や計画停電の実施など、まだまだ不安な世情が続き、家族を残して海外公演に出かけることにためらいのある時期でしたが、楽団員たちに「日本は地震で壊滅してしまったのではないかと思っているアジアの人たちに、日本は元気だという姿を見せよう」と語りかけました。すると、みんな私の言葉に賛同してくれたのです。ロシア人指揮者のアレクサンドル・ラザレフも、それに同意してくれました。大震災当日・翌日の公演、そして、この香港での公演は、日本フィルにとって大きな経験になりました。この厳しい環境の下で首席指揮者・演奏家・事務所のしっかりした信頼関係ができ上がり、演奏力が見違えるように上がっていったように思います。

奥田 ラザレフさんも楽団員のみなさんも、覚悟を持って決断されたと。

平井 そして、4月6日には福島県二本松市の避難所で、被災地で初めての演奏会を開きました。避難所の中に入るのもはばかられるような状況だったため、玄関の前でヴァイオリン、ヴィオラ、トロンボーンの3人が演奏しました。これが現在も続けている「被災地に音楽を」活動の第1回で、これまでに299回行われました。

奥田 ホールでの演奏会だけでなく、そうした地道な活動も続けられているのですね。

平井 はい。日本フィルの活動の柱は、オーケストラ・コンサートのほか、親子コンサートやワークショップなどを行うエデュケーション・プログラム、そしてこの「被災地に音楽を」を含むリージョナル・アクティビティ(地域活動)の三つで構成されています。私たちにとってどれも大切な活動です。(つづく)

日本フィルの活動報告書

 平井さんが日本フィルの仕事に携わって以来、毎年発行している活動報告書と2017年に発行された東日本大震災の被災地での活動記録。この「被災地に音楽を」は、間もなく300回を迎える息の長い活動だ。日本フィル自身、コロナ禍で苦しい経営状況が続いているが、こうした人々を元気づける活動の火を絶やしてはならないと思う。
 
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第273回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

平井俊邦

(ひらい としくに)
 1942年、東京生まれ。65年、慶應義塾大学経済学部卒業後、三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)入行。取締役香港支店長、本店営業第二部長等を歴任。96年、常勤監査役。98年、千代田化工建設代表取締役専務に就任。2001年、インテック取締役副社長、06年、インテックホールディングス取締役副社長・Co-CEO等を経て、07年、日本フィルハーモニー交響楽団専務理事に就任。14年、同理事長に就任。