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「プレハブ工場からのスタートだった」 メルコHDの故・牧誠会長の「お別れ会」で追悼の辞

 メルコホールディングス(メルコHD)が5月14日に名古屋市内のホテルで開催した創業者・牧誠会長の「お別れの会」では、1975年の創業当時から牧氏と深い付き合いのあった3名が「お別れの言葉」として弔辞を述べて故人を偲んだ。

奥さまの廣美婦人と2人で1975年にメルコを創業。四畳半メーカーからのスタートだった​​​​​

 東海エレクトロニクスの大倉偉作(ひでさく)相談役は、創業して間もないころから電子デバイスの取引をきっかけに、40年近くにわたり親交を深めたという。「オーディオ機器の製造からはじまり、PC周辺機器、インターネット関連機器へ、急速に進む世の中の技術革新を常に先取りしながら、人並み外れた行動力によって個人企業を業界で不動の地位を築き上げる企業に成長させた」と、牧氏の実績を讃えた。

 メルコHDが米国や台湾に海外進出した際に行動をともにしたという大倉氏は、「こぶしで机をガンガンたたきながら鬼の形相で交渉する一方、台湾では小籠包を頬張りながら『これはおいしいなぁ』と笑顔を見せていた」と、牧氏の仕事に対する厳しさと、柔和なやさしさをみたという。
 
東海エレクトロニクスの大倉偉作相談役

 名古屋銀行の加藤千麿(かずまろ)取締役会長も創業時の様子を振り返った。「オーディオ製品のアンプを自分で設計し、組み立ても行い、毎日、音楽を聴いては改良を加えた。製品の設計、開発、製造、販売と一人で何役もこなした後、自らライトバンを運転して北は北海道から南は九州まで全国のオーディオ販売店を訪問した。社長の肩書が恥ずかしいので、営業部長の名刺をつくって営業した」と、なんでも一人でこなしていた牧氏のバイタリティを披露した。

 牧氏は最近、加藤氏に対して「自分の心を伝えたい」と話していたという。その心は、メルコバリューとして定められた「千年企業」「顧客志向」「変化即動」「一致団結」の4つの企業理念であると語った。
 
名古屋銀行の加藤千麿取締役会長

 出会ったときに学年が同じで、周囲にためらうことなく名古屋の方言で話す牧氏に親近感をもったというBCNの奥田喜久男会長兼社長も、記者として取材した創業時を振り返った。「自宅にメルコの事務所があり、庭にプレハブの工場があった。牧さんから奥さまを紹介されたのをよく覚えている。(奥さまは)すべての事務をこなし、牧さんの夢の実現に向けてサポートしてこられた」。

 日本や米国のIT業界で、20代の若きベンチャーが夢を抱きながら仕事をしていた1980年代の活況にも触れた。「どれだけ仕事をしても次の仕事がわいてくる時代だった。当時のベンチャーはすべてがそうだった。米国ではビル・ゲイツやスティーブ・ジョブスがいて、日本では西和彦さん、孫正義さんがいて、牧誠さんと同業であり競合の経営者の細野昭雄さん(アイ・オー・データ機器会長)、葉田順治さん(エレコム社長)、山田哲也さん(サンワサプライ社長)がいて、皆さんが夢を実現した」と語った。
 
BCNの奥田喜久男会長兼社長

 80年代から90年代にかけてインターネットの時代に突入すると、牧氏は2000年にメルコのコーポレートステートメントを「インターネット、もっと使いやすく」と定めた。「時代の流れを汲んだ牧さんの製品戦略、販売戦略があたりにあたり、会社は大いに伸びて大成功を収めた」と、時代の先取りをしながらメルコを東証一部上場に導いた功績を讃えた。海外進出についても「未開拓の地域を率先して歩むことを好んでいた」と、自ら切り開いていく牧氏の行動力に触れた。
 
メルコHDとバッファローの牧寛之社長

 最後は喪主で牧誠氏の長男である牧寛之社長による謝辞が述べられた。「故人の魂は旅立っていきますが、創業者の心、理念、精神、哲学はメルコグループの役員が受け継いでまいります。メルコグループも、牧誠の心も永久に不滅です。ご参集いただきました皆様におかれましては、故人の遺志を継いで千年企業に向かって走っていくメルコグループのご支援を何卒、よろしくお願い申し上げます」と語り、創業者が残した「千年企業」の理念を継いでいくことを故人の前で誓った。