2026.8.20 17:00

かしこく暮らす

コピー1枚に汗をかいた時代――感光紙と青焼きがつないだ情報伝達の歴史

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 【崖っぷちのドミノの“かたじけない!”・11】以前、紙文化の歴史について書きながら、かなり時が進んでしまいましたが、ふと思い出したことがあります。今でこそ会議資料はPDFで送られてきますし、社内の資料共有はクラウド利用が当たり前です。「この資料、30部お願いします。」そんな言葉もほとんど聞かなくなりました。でも、私が社会人になった頃は違いました。配布資料を人数分複写すること自体が仕事だったのです。今回は、和紙や印刷文化から少し時代を進めて、「複写」の世界について振り返ってみたいと思います。若い人には「へえー、そうなんだ!」、私と同年代の人には「そうだったなあ……懐かしい」と感じてもらえたらうれしいです。(崖っぷちのドミノ)

「複写」について振り返る

コピー機がなかった時代

 若い世代の方は意外に思うかもしれませんが、昔はコピー機が今ほど身近ではありませんでした。現在は複合機のボタンを押せば、数十枚の資料がホチキス留めまでされて1分程度で完成します。しかし、それ以前は文書を複製すること自体が大仕事でした。学校ではガリ版印刷、会社ではカーボン紙、設計事務所や建設会社では青焼きを使っていましたね。それぞれの業界で工夫しながら情報を複製していたんです。

 複写という言葉そのものが、今よりずっと重みを持っていた時代です。今では法律や行政文書の「複写禁止」「複写不可」、規定や契約書の「複写を取得する」といった表現で見るぐらいで、日常ではほとんど使われない言葉になってしまいました。「コピーする」「ゼロックスをとる」なんていっていた時代も懐かしいです。

設計図といえば青かった

 昭和生まれの人なら、建築図面や機械設計図が青い紙だった記憶があるかもしれません。いわゆる「青焼き」ですね。正式には青写真(Blueprint)と呼ばれる複写方式です。感光紙に原図を重ねて紫外線を当てることで複写を行います。図面の線が白く浮き上がり、背景が青くなる独特の仕上がりでした。今ではCADデータをメールで送れば終わりですが、当時は設計図面を何十枚も複写し、関係者に配布する必要がありました。建築業界や製造業では欠かせない技術だったのです。
 
「青焼き」の時代があった

 私はあの青い図面を見ると、「本格的な仕事」というイメージがありました。まるで未来の建物や機械が、その紙の中に詰まっているように感じたものです。

 私がSEとして入社してすぐに、ある企業へ派遣されました。そこで、システムの仕様書を手書きでA3用紙に書き込んでいました。誤字脱字などがあると訂正して再度チェックし、上司が最終確認して、ようやく複写できるようになります。

 私の書く文字は抽象芸術の領域に達していて、よくやり直しをさせられ、つらい思いをしました。この時ほど、ペン字や習字を習っておくべきだったと痛感したことはありません。文字を書くことの大切さを身に染みて実感しました。当時の派遣先の上司には、あまりにも誤字が多いので漢字ドリルを渡され、「小学生から勉強し直せ!」と叱られたことを、今でもはっきり覚えています。

忘れられないアンモニアのにおい

 青焼きの思い出を語ると、多くの人が最初に話すのは「におい」です。青焼き機から出てきた紙には独特のアンモニア臭がありました。今の若い人にはなかなか伝わらないかもしれません。

 複写室へ入ると少しツンとした刺激臭が漂っています。決して良い香りではありません。「複写室って何?」と思う人もいるでしょう。実は複写機はかなり大きな機械で、普通のオフィス内には設置していなかった企業も多かったと思います。

 したがって、原稿を持って複写室に行き、そこで使われていない複写機を見つけて複写を開始する、なんてこともありました。オフィスに置けたとしても、オフィスの端のほうに設置されることが多く、そこまで移動していました。
 
複写室に行って複写する(写真はイメージ)

 でも不思議なことに、あのにおいを嗅ぐと仕事をしている実感が湧いたのです。机の上に積み上がった図面や仕様書、まだ少し温かい感光紙、インクやトナーとは違う薬品のにおい。あれは昭和から平成初期にかけての、オフィスそのものの香りだった気がします。紙には手触りだけでなく、においの記憶もあるんですね。

感光紙メーカーから始まったリコー

 複写文化を語る上で興味深いのがリコーさんの歴史です。現在ではデジタル複合機メーカーとして有名ですが、その原点は感光紙の製造にあります。

 1936年に設立された「理研感光紙株式会社」が、現在のリコーの出発点でした。社名の通り、感光紙を作る会社だったのです。感光紙の需要拡大とともに成長し、その後は複写機や事務機器の分野へ進出していきました。考えてみると面白いですよね。感光紙の時代を支えた企業が、その後デジタル複合機の時代も牽引しているのです。技術は変わっても、「情報を複製し、共有する」という本質は変わっていません。

新人時代の資料作り

 新人だった頃、会議資料を何十部も複写する仕事を任されたことがありました。今ならメール一本で終わります。しかし当時は違います。複写した資料を数十セット作り、ページ順に並べ、ホチキスで留める。1部が10ページだったら大変です。10ページの原稿を10人分そろえると、合計100枚の複写が必要になります。今では考えられないほどの時間を費やして資料作りをしていました。

 そして……途中でページが抜けていないか確認する。1ページ足りなければ最初から確認です。会議の準備が終わる頃には汗びっしょりでした。それでも先輩方は何もいわず黙々と作業していました。たぶん、みんなが通る道だったのでしょう。資料作りが若手社員の大切な仕事だった時代です。だからこそ今、ボタン一つで何百ページでも印刷できる環境を見ると、本当に便利になったと感じます。

青焼きからPPCへ

 80年代頃になると、青焼きや感光紙の世界に大きな変化が訪れます。PPC(普通紙複写機)の普及です。感光紙を使わず普通紙にコピーできるようになりました。スピードは速い。仕上がりはきれい。アンモニア臭もない。現像の手間もありません。オフィスは一気に変わりました。資料作成時間は短縮され、情報共有のスピードも向上しました。

 かつて複写室にこもっていた作業が、誰でも簡単にできるようになったのです。その流れは、ワープロ、PC、プリンターへと続いていきます。

青焼きの先に見えるもの

 振り返ると、青焼きは単なる古い技術ではありません。情報を正確に伝えるための知恵でした。和紙から始まった日本の紙文化。ガリ版印刷。感光紙。青焼き。PPCコピー機。レーザープリンター。PDF。クラウド。そしてAI。

 全ては情報共有の進化の歴史です。もし昔の技術者や事務担当者が、今の生成AIを見たらどう思うでしょう。「こんなものがあれば徹夜しなくて済んだのに」。そう笑うかもしれません。でも、AIが生まれた背景にも、情報を伝えたい、残したい、共有したいという人間の長い歴史があります。青焼きのにおいも、感光紙の手触りも、その歴史の大切な1ページだったのだと思います。

 かたじけない。

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