「先心後技」を理念に人材育成――第21回

千人回峰(対談連載)

2008/05/12 00:00

北村正博

システックス 社長 北村正博

 北村さんとは、大塚商会のソフトウェア協力会の縁で知り合い、その人間くささに惚れ込んだ。顔を合わせるのは年に1~2回だが、お互い気どることなくお話しさせていただいている。一緒に中国へ行ったこともあるが、お嬢さんが中国人と結婚され、お孫さんがおられることは、今回初めて聞いた。【取材:2008年1月25日、BCN本社にて】

 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
 
<1000分の第21回>

※編注:文中の企業名は敬称を省略しました。
 

23歳で起業、「長野ソフトウェアサービス」設立

 奥田 起業したのは23歳だったんですって?

 北村 高校を卒業して、長野に本社がある新光電気工業という会社に就職したんです。富士通のグループ会社で、半導体などを手がける会社でした。その会社で富士通の電子計算センターを長野に作ろうという話が進行していたころで、私はそのための要員として採用されました。

 ですから新入社員教育は富士通の川崎工場で受けましたし、長野に戻っても富士通の名刺を持って動いてました。ユーザーとしてはトヨタ自販の長野トヨタなどが大手でしたね。長野トヨタには1年2か月通って、手形管理、車両管理、一般会計、市場調査システムなどを構築するお手伝いをしました。

 そんな事情で、富士通のSEや長野トヨタの社員などと親しくつき合うようになり、ソフトウェアの開発という世界なら独立してやっていけるんじゃないかなと思うようになったんです。

 奥田 独立することに不安は感じなかったですか。

 北村 実家は農家なんですが、農業をやっているのは母だけで、祖父も父もいろいろな商売に手を出して、それなりに成功していました。井戸のポンプとか家電製品などを売ってましたね。そうした商売人の血が流れているせいか、自分でビジネスをはじめることにとくに不安は感じませんでした。

 「長野ソフトウェアサービス」を設立したのは1970年(昭和45年)9月でしたが、なにしろ23歳でしょう。会う人はすべて年長の人ばかり。じつは私、おじいちゃん、おばあちゃん子で育ちましてね、二人とも躾にはけっこう厳しく、独立したとき、これが幸いしました。年上の人と話すときの礼儀作法、言葉遣いなどや、甘え方も自然と身につけていましたね。

 奥田 事業は順調に立ち上がったんですか。

 北村 順調といえば順調だったのかな。富士通や長野トヨタのツテなどを通じてユーザーを開拓していきましたけど、70年当時ですから、長野県に普及しているコンピュータは限られています。それで、71年には静岡県のユーザーを開拓、1週間は静岡、1週間は長野で仕事をするというような生活を続けました。

 苦い経験もしました。会社を立ち上げて2年ほど経ったころ、年齢が一回り上の人から、一緒にやろうといわれて手を組んだのはいいが、1年間やって、完全に私のほうの持ち出しに終わってしまいました。その後も何度か裏切られた経験はあります。だけど、裏切るよりは裏切られる側に回ったほうがいいと、私は考えています。

[次のページ]

次へ