毎日ベータ版をリリースして日々進化できる会社にしたいと考えた――第76回

千人回峰(対談連載)

2013/02/19 00:00

翁 永飆

翁 永飆

キングソフト 代表取締役社長

構成・文/小林茂樹
撮影/横関一浩

 四半世紀も前のことだ。日本では「昭和」が幕を閉じようとする頃、高校を卒業して間もない翁さんは、憧れの日本の土を踏んだ。父君が大学教授という恵まれた家庭環境で育ちながら、あえて徒手空拳で日本に学ぶことを選択した。おそらく彼の胸の内には、今の日本の若者にはなかなか理解されにくい純粋な「志」や「夢」が、はちきれんばかりに詰まっていたのだろう。現在、キングソフト、ACCESSPORTの社長を務め、ITの世界で日本と中国の架け橋になっている翁さんに、苦学生時代のエピソードから現在の日中関係に至るまで、じっくりと話を聞いた。【取材:2012月9月20日 東京・港区赤坂のキングソフト本社にて】

「フェイスブックがいい例ですが、何千万もの人が利用することによって、今まで不可能だった無料化が可能になることは十分想定できます」と、翁さんは将来を予想する。
 
 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
 
<1000分の第76回>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

エンジニア志向からビジネス志向に

 奥田 1988年に来日されたのですね。当時、中国から日本への留学はそれほど珍しいことではなかったのでしょうか。

 翁 日本語学校の保証があればビザがおりるという緩い時代だったこともあって、上海からはたくさんの学生が日本に来ていました。ただ、入学金と最初の半年分の授業料で40万円ほどかかります。私の両親は大学に勤めていたのですが、それでも二人の月給は合わせて2万円ほど。つまり、日本に行くには給料の20か月分を事前に納めなければならず、そう簡単なものではありませんでした。

 それでも“豊かで進んでいる”日本に行きたい一心で、「必ず稼いで返すから」と頼み込んで、両親にあちこちから借金してもらいました。

 奥田 日本でのスタートはどうでしたか。

 翁 当座の生活費4万円をもって成田空港に降り立ちましたが、すぐにアルバイト探しです。最初は御徒町の居酒屋に勤め、大塚にあるアパートの6畳一間に留学生4人で住んでいました。

 日本語学校、アルバイト、ビザの更新、大学受験と、すべて綱渡りのような感じで乗り切ったのですが、受験料稼ぎのためにフルタイムで働いた当時は、午前7時から9時まではパチンコ屋さんの掃除、そのあと日本語学校に行き、午後6時から8時まではオフィスビルの掃除、午後8時から朝の4時まではパブで働き、それが終わったら山手線の列車内で2周分寝て、また朝が始まるというような感じでしたね(笑)。

 奥田 それは凄まじいですね。それで首尾よく大学に合格された……。

 翁 横浜国立大学に受かってホッとしましたね。それで、夜は横浜のバーで働いていましたが、1990年の「上海浦東プロジェクト」が始まった頃で、多くの日本企業が中国に興味を抱き始めていました。

 あるとき、上海の父から連絡があって、父の友人が展示会のツアーで来日するので、通訳をしてほしいといわれました。その話を何気なくバイト先のママさんに伝えたら、企業コンサルタントをしているご主人が、その上海からのお客さんにぜひ会いたいというのです。それがきっかけとなって、私がご主人を中国に連れて行き、いわゆるビジネスツアー的なアレンジをすることになって、その後も何度かクライアントの社長を案内するお手伝いをしました。

 そういうアレンジをやり始めたら、けっこうおもしろいのです。だけど、まだ学生なので、会話のなかに自分の知らない言葉がたくさん出てきます。例えば「事業計画書」とか「フィージビリティスタディ」とか。それを勉強していくとまた興味が湧いてきて……。このときにビジネスのおもしろさに目覚めて、エンジニアになるのはやめようと考えたのです。

 奥田 起業することは考えなかったのですか。

 翁 大学4年生になったときには、起業を考えました。ただ、ビザの問題があることと、起業する力がまだないと判断して、大学院に進んだ後、いったん就職する道を選びました。ビジネスを学ぶことができる会社に就職しようと思い、伊藤忠商事のお世話になったのです。

 伊藤忠に一番感謝しているのは、1年目から課の予・実管理を徹底的にやらされたことです。例えば、2月に出した読みと3月の決算にずれが生じてしまうと、厳しく叱られます。それから、課にかかわるすべての契約書のドラフトをつくったり、先方から届いたドラフトをチェックする仕事も非常にシビアでしたね。チェックしたものを課長に提出するのですが、提出してたいてい1分か2分以内に「おきな君!」と大声で呼ばれるのです。呼ばれた瞬間に、「また怒られる」と(笑)。しかも、オープンなオフィススペースなのでそれが思い切りみんなに聞こえてしまい、「また、おきな君が叱られている」と思われていたようですね。でも、その厳しさが今のビジネスの基礎をつくってくれました。
 

苦学生時代の翁さん=日本に来て間もない頃、アルバイト先でのひとコマ。
 

留学生4人でシェアした大塚のアパートで撮影したもの。左端が翁さん。まだ少年の面影が残る。

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