山形の高校生にAI学習の機会を 定年間際の俊ちゃん先生が立ち上がった――394人目(上)

佐藤俊一
山形県立産業技術短期大学校 校長
構成・文/道越一郎
撮影/道越一郎
2026.4.24/山形市・松栄の山形県立産業技術短期大学校 校長室にて
週刊BCN 2026年6月1日付 vol.2105掲載
【山形市発】「やまがたAI部」の発起人の1人として、高校生へのAI学習の旗振り役を果たす佐藤先生。過去には、生徒を教室に閉じ込めるようにして受験勉強をさせていた時期もあった。しかし、指導の在り方に違和感を抱き始めていた。高校への探究科設置の仕事が舞い込んだのはそんな時だ。詰め込みから、自ら課題を見つけて解決する力を養う教育へ。この大きなパラダイムシフトがAI部にもつながっていく。「昔、喫煙で謹慎させた生徒が、今ではいい先生になったりしているんですよ。どこでどうなるか、分からないもんですね」と佐藤先生は笑う。若い頃はご自身もかなり「やんちゃ」な先生だったが、本音で生徒と向き合う姿勢は今も変わらない。
(本紙主幹・奥田芳恵)

フェンシングを見ながら交わした雑談が「やまがたAI部」を生んだ
奥田 高校生を対象にした、やまがたAI部を立ち上げられたのが2020年。どんな経緯で始められたんですか。佐藤 松本晋一さんと一緒に、私が校長をしていた山形東高校のフェンシング部の練習を見学していた時のことです。なんとなく「高校生がAIでフェンシングの分析をできたら面白いねぇ」と雑談を交わしました。それがきっかけです。松本さんは東京でAIを使った製造業DX支援のコンサルティングを担う、オーツー・パートナーズという会社の社長さんです。フェンシングの日本代表チームのデータ分析もされていました。当時は山形で金型をつくる企業の社長もやられていたので縁があったんですね。後に、やまがたAI部運営コンソーシアムの会長に就いていただきました。
奥田 生成AIの登場で世間の注目を集めるようになる、ずっと前のことですよね。
佐藤 当時すでに山形でも、産業のさまざまなところにAIは使われ始めていました。間違いなく産業構造そのものも変える。どんな分野にもAIの知見が必須になる。教育は今すぐに始めなければならない。ところが、学校のカリキュラムにAIはない。学習指導要領の改訂を待っていたら10年かかります。だったら今やれることからやろう。そこで学校外の資源も使って部活動として教育を始めることにしたわけです。
奥田 どんな方々に声をかけたんですか。
佐藤 当時は県の高校校長会の会長もやっていたので、まず10校の校長にすぐ電話しました。趣旨を話すと、全員が二つ返事で「やってみたい」と。産業界としても、デジタル人材育成は急務でしたから、高校から関わりたいと多くの企業にご協力いただきました。行政としても、高校生の県内定着は大きなテーマ。(大学などに)進学する7割の生徒のうち、ほぼ7割が県外進学です。それでも、できるだけ地元の産業界で働いてほしい。行政、産業、学校と3者の思惑がAIという一点で一致したんです。
奥田 当時おいくつだったんですか。
佐藤 59歳、定年直前でした。3月に退職して山形大学に行くことは決まっていました。自分は立ち上げの最初の部分だけかと思っていたら「佐藤さん、引き続き手伝ってくれ」と。幸い、当時の山形大学長だった玉手(英利)さんも乗り気でした。AI部の活動も業務として認めてもらい、活動を続けることができました。
奥田 ちょうどコロナが大きな問題になり始めた頃ですね。
佐藤 「Teams」でオンライン会議を重ね、AI部が立ち上がったのが8月でした。参加校は11校、部員は63人。10月には運営母体のコンソーシアムを立ち上げて、22社、3大学、4自治体に参加していただきました。まさにゼロからの立ち上げでしたね。歩けば壁にぶつかる状態です。誰が教えて、予算は、運営は……。それでも、課題を解決しながら新しい価値をつくっていくことが実感できて、とても面白かったです。
奥田 何か、AI部につながる土台のようなものはあったんですか。
佐藤 東高に「探究科」を設置したときの校長が私なんです。18年でした。学習指導要領が変わる前に、山形県内6校の拠点校に探究科を設置することになったんです。生徒自らの興味や関心に基づいて行う、課題探究型の学習を中心に据えた学科です。テーマは何でもいい。例えば、1学年240人程度でテーマの数は90ほど。教員が全部フォローすることはできません。そこで、いろいろな人を外部から招き入れて教えを乞うわけです。それがAI部の種になりました。
半ば押し付けられた野球部の顧問 健気な部員の姿が教師を目覚めさせた
奥田 プロフィールを拝見すると、もともとは英語の先生なんですよね。佐藤 今も大学で英語を教えています。そっちのほうがずっと楽です。高校時代は数学が一番好きで英語が二番目ぐらい。どっちを選ぶか、進路で迷いました。大学受験では理学部と文学部に願書を2通出して、受験の朝の気分で文学部を受験しました(笑)。高校の教員は「そんな態度でなぜ受かったんだ」とびっくりしていました。
奥田 教職の道を志したのは大学の頃からですか。
佐藤 実はなりたくてなったわけじゃないんです。大学4年になっても、何をやるのか自分の気持ちが固まらないまま就職活動をしていました。企業もだいぶ受けましたが、最終面接でことごとく落とされて。本気じゃなかったのが見透かされたんでしょうね。そのままずるずると卒論も出さずに5年目に突入しました。こんなことを2年も3年も続けるわけにはいかないと、実家のある山形県で教員採用試験を受けることにしました。何とか合格できて、この世界に入りました。
奥田 どんな先生だったんですか。
佐藤 自ら進んで教師になったわけじゃない、というのがばれていたんでしょうね。最初の頃は同僚の先生方からも、ろくに扱ってもらえませんでした。歓迎会のあいさつでも、私だけ順番を飛ばされたくらいです。いわゆる「先生」じゃなかったんでしょうね。その辺のあんちゃんが教壇に立っているようなものでした。
奥田 でも、生徒さんには好かれそうです。
佐藤 俊ちゃんって呼ばれていました(笑)。全校遠足で、湯野浜という浜辺で芋煮会を開いたときのことです。生徒たちは会場まで徒歩か自転車。私は緑のアウディに材料とか薪を積んで先に行くわけです。生徒が着くまで何十分か時間があるじゃないですか。それまで、こっそりサーフィンです。サーフボードも積んでいったんですよ。時間になると、なぜか居場所を知らないはずのほかの先生がスーパーカブで迎えに来る。生徒たちには読まれていたんですね。「あの辺で遊んでいるはずだから」と。
奥田 生徒さんとの距離感が分かるようなお話ですが、緑のアウディとはまた個性的な。
佐藤 ボロボロの中古でしたけどね。それにしても、生徒は鋭いんです。いくら嘘をついても読まれちゃう。だから本音で迫るしかなかったんです。それだけは今も変わりませんね。
奥田 教師として目覚めたきっかけのようなものはあったんですか。
佐藤 初任校の鶴岡南高校で、いきなり野球部の顧問をやらされたんです。校内でも1、2を競う厳しい部活で、年間360日は活動していました。当然顧問は誰もやりたがらない。どの部活の顧問をするかは紙に希望を書いて出すことになっていました。ところが先輩教師が「新人は野球部と決まっている」と。無理やり希望を書かされ、泣く泣く顧問就任です。
奥田 今なら何とかハラスメントと言われそうですね。
佐藤 初めての練習試合で、生徒を引率して他校に出かけたときに、なぜかジーンときたんです。きれいに道具を並べて相手チームにあいさつする生徒たちの姿を見て「この子たちはこうやって成長していくんだ」と実感したんですね。この成長に寄り添ってみたい、と純粋に思いました。それが本当の意味での教員としてのスタートでした。(つづく)
学生と一緒に取得した小型建設機械の免許証
学生と一緒に勉強して、ミニブルドーザーやミニショベルを動かすために取得した資格。冬には除雪でも活用できる。機械があっても人手がないときには、校長自ら除雪にあたれますよと笑う。「還暦を過ぎた校長だって、こうやって勉強しているんだ、という背中を学生に見せるんです」と嬉しそうに話す佐藤さん。その甲斐もあって、1年生は全員一級土木施工管理技術検定(第一次検定)に合格したという。
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
Profile
佐藤俊一
(さとう しゅんいち)
1960年3月山形県天童市生まれ。東北大学卒業後、英語教師として山形県立鶴岡南高等学校で教職に就く。県立山形東高、県立寒河江高などを経て、山形県教育庁に入庁。高校教育課課長補佐や生涯学習振興室長に就任。その後、山形県立寒河江工業高等学校校長、山形県教育庁教育次長、山形県立山形東高等学校校長、山形大学エンロールメント・マネジメント部教授などを歴任し現職。






