試合に興味のなかった空手部員が 世界の頂点に駆け上がる――第310回(下)

千人回峰(対談連載)

2022/07/29 08:00

和田光二

和田光二

三田空手会 副会長

構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一

週刊BCN 2022年8月1日付 vol.1933掲載

【東京・三田発】今回お邪魔した三田綱町道場は、慶大三田校舎近くのグラウンドの一隅にある。この道場ができたのが、和田さんが世界選手権で優勝した1970年頃というから、もう50年以上、ここで厳しい稽古が行われてきたということになる。空手が沖縄から本土に紹介されてちょうど100年。そして、慶應義塾に空手部(唐手研究会)ができて98年。創部100年を期してこの綱町道場も改築されるということだが、建物は新しくなってもこの厳粛な雰囲気はこれからも引き継がれていくのだろう。
(創刊編集長・奥田喜久男)

個人戦の代表は学生2人
劣勢を挽回して見事優勝

奥田 上編の冒頭でも触れましたが、和田さんは1970年の第1回世界空手道選手権で個人戦優勝、そして70年と71年の全日本学生空手道選手権でも連続優勝と無敵の強さを発揮されました。世界の舞台に立つ緊張感はいかほどのものだったのでしょうか。

和田 実は、試合というものにあまり興味がなかったんですよ。

奥田 と言うと?

和田 当時の空手部は、中学と高校では試合というものがなく、大学に入ってからはじめて試合を経験しました。ただただ強くなりたい一心で練習し、試合で勝ちたくて練習したわけではなかったのです。だから、試合に出ても勝てるとは思いませんでしたね。

奥田 そうなんですか。試合で勝つための練習があるのですね。

和田 私がはじめて個人戦に出場したのは大学2年生のときの全日本学生選手権。2回戦で拓殖大学の大坂可治主将と対戦したのですがなかなか決着がつかず、延長戦の連続の末に敗れました。ところが大坂さんのその後の試合では延長戦は一度もなく、簡単に勝ち上がってあっさり優勝してしまったんです。このとき、これなら自分もいけるかもしれないと思い、試合のための練習に打ち込むようになりました。

奥田 そして翌年の学生選手権で見事に優勝され、その年に開かれた初の世界選手権に出場されたわけですね。

和田 世界選手権は団体戦と個人戦があり、日本武道館で行われた団体戦には日本から5チームが出場し、1位から3位までを独占しました。このとき私が所属していたチームは準優勝でしたが、団体戦ではそれほど緊張することはなかったですね。

奥田 個人戦はいかがでしたか。

和田 個人戦はトーナメントの一発勝負でしたから、だいぶ緊張しました。

 団体戦が東京で行われた後、個人戦は大阪府立体育館で行われたのですが、団体戦終了後、外国チームから個人戦の参加人数を各国2名以内に制限するべきという申し入れがありました。

奥田 それは、日本にまた上位独占されないように、ということですか。

和田 そういうことです。日本チームはこの申し入れを受け、当初10人程度の参加を予定していたものを、急遽2名に絞り込んだのです。そこで選ばれたのが、東洋大学3年生の高田茂選手と同学年の私でした。

奥田 社会人ではなく、学生が2人選ばれたことには何か理由があるのですか。

和田 現在の全日本空手道連盟には、松濤館流、剛柔流、糸東流、和道流という四大流派がありますが、社会人はいずれかの流派の道場に所属していました。つまり、2名しか出場できないのですから、選ばれなかった流派から不満の声が出るのは必至です。そして選ばれたとしても、団体戦で海外勢の実力が思った以上に高いことを知った選手たちは、負けたらたいへんなことになると、内心二の足を踏んでいたのです。

奥田 だから、流派のしがらみのない学生を選んだわけですね。でも、すごいプレッシャーでしょう?

和田 準々決勝を戦っているときに、観客席から悲鳴のような大きなどよめきが起きました。隣りで試合をしていた高田選手が、米国の選手に一本負けを喫したのです。その瞬間に「外国人に優勝されたらどうしよう」と、一瞬、身体が硬直した隙に“技あり”をとられてしまいました。それでも「負けるわけにはいかない」と必死で攻め、なんとか引き分けに持ち込み、延長戦で優勢勝ちを収めました。そして、準決勝、決勝も勝ち抜き、優勝することができたのです。

奥田 空手の国際化が進んだ現在とは異なり、おそらく当時は日本人選手が外国人に負けることが許されない空気があったのでしょうね。

試合で勝つ極意は
間合いと呼吸に尽きる

奥田 空手の試合の形態は、時代によって変わるものなのでしょうか。

和田 昔は素手で防具もつけずに行いましたが、現在は拳サポーターやメンホーという防具をつけて組手の試合を行っています。また、私が最初の世界選手権に出たときは、男子組手の個人戦と団体戦しかありませんでしたが、その後、組手も体重別になったり、女子の試合や形の試合が行われるなど、バリエーションが増えました。マスターズの大会もあり、私は2008年に空手道組手4部(55~59歳)で優勝しているんですよ。

奥田 それは素晴らしいですね。ところで、試合に勝つ極意というか重要なポイントはどんなところにあるのでしょうか。

和田 「間合いと呼吸」に尽きますね。間合いというのは人によって違うわけですが、相手の身体の大きさや運動能力をきちんと把握して対峙することが大事です。

奥田 呼吸というのは、どう捉えたらいいでしょうか。

和田 呼吸は、息を吸って吐いての繰り返しですが、息を吸いはじめるとき、人は動けないのです。だから相手が吸うときに攻めるというのが基本ですが、そのためにどうするかということを研究するんです。例えば、自分の呼吸を相手の呼吸に同調させ、相手が吸うタイミングで自分は吸わずに吐いたまま一気に攻めるといったこともあります。また、フェイントをかけると相手の息が一瞬止まるのですが、このとき身体が硬くなるため、攻めるチャンスとなります。つまり、相手に合わせるのではなく相手の呼吸を自らつくり出すことができれば、コントロールしやすくなるわけです。

奥田 実力が拮抗していれば、当然相手も同じことを考えますよね。

和田 そうですね。そうしたギリギリの間合いと呼吸の中で、相手を潰しきれるかというところが勝敗を分けるわけです。潰しきれなければ、カウンターでやられてしまいます。ですから「こうすれば勝てる」という方法は一切ないですね。
 それから、私の場合はスピードを重視していました。止まったらやられてしまうので、一度仕掛けたら止まらず、流れるように連続で技を繰り出していくというスタイルでした。

奥田 流れるように技を出すというのは、相当なテクニックがないとできないのでしょうね。

和田 いや、畳み掛ける技はむしろ流れるようにしか出せないのです。無理な態勢から威力のある技は出ませんから。

奥田 なるほど、とても納得できますね。今日は、たいへん興味深いお話をありがとうございました。

こぼれ話

 いつの間にやら73歳。和田光二さんと私は同い年だ。正確に言うと光二さんは私の誕生日の115日後に、川崎市で産声をあげられた。きっと“気合”の入った産声ではなかったろうか。お会いしたのは今回が初めてだ。年齢が近いだけに格別の興味が湧いていた。私は岐阜市の生まれ。まったく異なる場所で生まれ、それぞれの人生を重ねて、対面した。川の流れに喩えれば、支流が合流して、ともに語らった。そんな気分だ。対談場所の空手道場は慶應義塾大学三田キャンパスでも分かりにくい綱町グラウンドにある。ようやく辿り着いても、そこは広いグラウンドだ。守衛の方が「あそこです」と指差すその先には何もない。再度聞いた。「はい、あれですか」とつぶやく。古めかしい小屋に向かって、塀沿いをL字に歩く。辿り着いた。ここだよね、と入り口を確認すると『慶應…空手部』と微かに読める看板がある。光二さんの案内で道場に入る。曇り空の太陽光が窓からさす。汗とともに人の佇まいを感じる。ここは生きている。入り口右手の天井から部員の名札がズラリと掛かっている。昭和2年卒業生2名。ここから始まる。昭和が丸ごと詰まっている。

 名札を目でなぞる。まるで歴史年表だ。あった。あの年に光二さんと私は生まれた。光二さんの紹介者である橋本和久さんの名札もある。眺めながら、もう昔のことになるのだと、そっと息を吐く。『慶應義塾體育會空手部』 は2024年10月15日に創部100周年を迎える。サイトに行ってみた。第65回全日本空手道選手権大会では女子団体形で準優勝。まことに元気溌剌だ。現在の道場は日吉の蝮谷空手道場。平成から令和へ、そこには今がある。昭和の詰まった三田の綱町グラウンドは、このほど日本野球聖地名所150選に認定された。1872年にアメリカのホーレス・ウィルソンが日本に野球を伝えてから150年になるのを記念しての認定だ。歴史が積み重なっていく。

 和田さんは言う。「大学空手部の創部は慶應から始まりました」。これは誇りだ。語り口調からもそう感じた。空手部には慶應義塾普通部から入部した。空手歴60年を超える。73歳だから空手一筋だ。社会人歴も聞いたが、空手歴での人間形成の話に終始した。最も聞きたかったのは、第1回世界空手道選手権個人戦決勝での“勝ち”を決めた時の話だ。実際には準々決勝の話に心が動いた。その試合では引き分け、そして延長戦の優勢で勝った。日本人の空手選手は2名。その1人がぐうぜん隣りで試合をしていて、負ける。会場はどよめき、和田さんの身体は一瞬硬直する。その瞬間に“技あり”を取られて、引き分け。初めての世界大会。空手王国日本。その代表者は1人となった。その一瞬の硬直は隙だ。このシーンを光二さんは幾度も回想したはずだ。ある時には夢にも現れたのではないか。この緊張感を思うと、他人事ながらぞっとする。光二さんと対面した瞬間に感じるオーラ。道着姿で演武を見せていただいた。かっこいい。この人が同世代人だと思うと、自信が湧いてくる。蛇足ながら、息を吸ったときに身体の動きは停止するそうだ。覚えておこう。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第310回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

和田光二

(わだ こうじ)
 1949年、神奈川県川崎市生まれ。72年、慶應義塾大学経済学部卒業。味の素川崎事業所次長兼総務部長、日本道路公団広報室長、国際武道大学非常勤講師などを歴任。69年、全日本学生空手道連盟代表団メンバーとして米国遠征。70年、第14回全日本学生空手道選手権優勝。全日本学生空手道連盟代表団メンバーとして欧州遠征。第1回世界空手道選手権団体戦準優勝、個人戦優勝。71年、第15回全日本学生空手道選手権優勝。現在は、三田空手会副会長・進級昇段審査委員長、全日本空手道松濤館常任理事・関東地区協議会議長、明治薬科大学空手部師範を務める。全日本空手道連盟公認七段、三田空手会七段、全日本空手道松濤館七段。

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