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自分のやりたいことを実現させてくれた 教育の力を信じる――第309回(下)

千人回峰(対談連載)

2022/07/15 08:00

向井千秋

向井千秋

東京理科大学 特任副学長/医師・医学博士

構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一
2022.4.25/東京都新宿区の東京理科大学にて

週刊BCN 2022年7月18日付 vol.1931掲載

【東京・神楽坂発】向井さんは、医師、宇宙飛行士、そして大学の教員というキャリアをたどってこられた。こうした仕事に携わるためには並々ならぬ努力が必要で、その努力をするための才能もまた必要なのだろうと思う。でも、対面してお話をうかがっていると、次々に湧き起こる知的好奇心の波に乗っているうちに、次のステージを引き寄せているかのように思えてくる。向井さんは「土壌に乗ることができた」と話してくれたが、それは単なる運によるものではなくすべて必然のことだったと思えるのだ。
(創刊編集長・奥田喜久男)

あっという間に過ぎ去った
初搭乗までの9年間

奥田 NASAでの最終試験まで1年半もかかったということですが、そのプロセスではどんな思いを抱かれましたか。

向井 宝くじを持っているようなワクワク感ですね。

奥田 選抜が進むにつれて、“当たる”確率は高まりますものね。

向井 それから、NASAで最終試験を受けるに際しては、日本で事前に綿密な医学検査を受けるのですが、このとき、自分が医学検査を受けるという経験を通して患者さんの気持ちやその痛みを実感することができました。

奥田 具体的にはどんなことですか。

向井 日本からの宇宙飛行士一期生ということで、送り出す側もとても慎重で、1週間入院して徹底的に検査をしたのです。このとき、採血の痛みや蓄尿のわずらわしさを患者の立場で実感しました。採血もやり方によって痛みが全然異なりますし、外科医時代、もう必要ないのに蓄尿のストップをかけるのを忘れたこともあったりして、かつての患者さんたちに申し訳ないことをしたなと反省しましたね。

奥田 そして見事に難関を突破され、科学宇宙飛行士に選ばれたわけですが、コロンビア号に乗るまでの間、NASAではどんな生活を送られていたのですか。

向井 NASAのスペースセンターがあるヒューストンは石油産業と医療産業の集積地で、メディカルセンターもすごく大きいんですよ。そして、スペースセンターは有人宇宙技術の中心地でさまざまな研究が行われていましたが、私はそこで宇宙医学、とくに心臓や血管の生理学についての研究に携わっていました。

 そんなとき、高名な心臓外科の先生から、週に1回、メディカルセンターでの心臓手術を見学する機会をいただきました。日本では、1968年に国内初の心臓移植手術が行われましたが、その後はタブー視され、再開されるまで30年ほどの空白の期間がありました。ところが、私がNASAで研究を始めた86年には、アメリカでは心臓移植のRedo、つまり同じ患者さんに2度目の移植手術が行われるレベルになっていました。それを目の当たりにしたときのインパクトは大きかったですね。

奥田 NASAに行っても、医学者としての経験も積むことができたのですね。

向井 NASAの医学系の研究者や飛行士、それにメディカルセンターの人たちとも連携できたことは、とてもよかったですね。

奥田 宇宙医学の研究というのは、具体的にはどんなことをされたのですか。

向井 たとえばパラボリックフライトといって、水平飛行している飛行機の機首を上げて高度を上げた後、自由落下させるような飛行をすると無重力状態が発生するのですが、その状況で被験者の心臓や血管にどんな変化が出るかといった研究をしていました。これを1日に40回ほどやって、次の日はメディカルセンターで臨床の見学や補助循環開発の動物研究に参加するという具合でしたから、忙しくて大変でしたがとても面白く充実した日々でした。ですから最初のフライトまで9年かかったといいましたが、その期間はあっという間に過ぎた感じですね。

奥田 そうしたプロセスを経て、いよいよ宇宙に向かうというとき、どんな気分なのでしょう。恐さを感じることはありませんでしたか。

向井 スペースシャトルは液体燃料を使用しているため、打ち上げの寸前でも不具合があればブースターロケットに点火しない仕組みになっています。発射の瞬間は、それまでの準備や努力の集積といえますから、クルーも地上スタッフも全員が「行くぞ!」という気持ちだったと思います。私も、恐いというよりはうれしかったですね。

奥田 素人から見ると、宇宙飛行士は優れた頭脳のほかに強靭な肉体が求められるように思いますが、最近は一般人も宇宙に行けるようになりましたね。

向井 そうですね。打ち上げのときには3Gか4Gの加速度がかかりますが、高血圧などの疾患がなければ、それほど強靭な身体でなくても耐えられるはずです。ただし、地球に帰還してくるときは重力に慣れるために、降り立ったときは車椅子などの助けを借りる必要がありますね。

 私は98年の2回目のフライト(ディスカバリー号)で、米国初の宇宙飛行士の一人であるジョン・グレン氏と一緒だったのですが、ロケット技術も有人宇宙飛行技術も未熟だった62年当時はとても大変だったそうです。でもその後の技術やノウハウの蓄積によって、仕事や観光で宇宙に行けるまでになったわけですね。

宇宙レベルの技術開発を
地上での生活向上やSDGsに生かす

奥田 現在、向井さんは東京理科大学の特任副学長を務められていますが、こちらでは主にどんなことをなさっているのですか。

向井 私は、誰もが自由に教育を受けられる戦後の日本に生まれ、医師や宇宙飛行士への道を開くことができました。ですから、やりたいことを実現させる教育の力を信じており、以前から教育分野への関心を持っていたのです。理科大では特任副学長という立場なので大学運営全般に関わるほか、文科省から委嘱された宇宙教育プログラムで人材育成に携わったり、月面をターゲットにしたデュアル開発という研究を行ったりしています。

奥田 月面をターゲットにしたデュアル開発というのは?

向井 「みんなで宇宙に住もうよ」という研究です。一般的に「デュアル」というのは軍事と民間の両方という意味で用いられますが、ここでは宇宙と地上を指しているんです。私たちが研究しているのはロケットや人工衛星ではなく、衣食住です。人間が宇宙で生活するために、たとえば照明、空調、殺菌といったものをどうするか考えなければなりませんが、理科大がもともと持っている太陽光電池パネルや光触媒などの技術を、縦割りではなく宇宙という横串を通すことによって、より高いレベルの開発を目指すという狙いがあります。おのずから、それは地球における生活の向上やSDGsにも貢献するはずです。

奥田 まさに、教育は夢を実現するということを体現されているのですね。これからもますますのご活躍をお祈りしております。

こぼれ話

 カーテンを開ける。遠くに雪をつけた鳥海山を望む。青い空がどこまでも透き通っている。爽やかな朝だ。道路では秋田竿燈まつりの準備が進んでいる。昨夜は太鼓の音に引かれて北都銀行の練習風景を見に出かけた。若衆は「3年ぶりです。やる気満々。お見せしましょか」と担いでくれた。世界中の何もかもが3年ぶりだ。世の中が動き始めた。今日こそ原稿(こぼれ話)を書こう、と自分に言い聞かせる。秋田市内のホテルの一室でネットラジオをオンにした。「きょうは何の日です」というアナウンサーの声が聞こえてきた。「向井千秋さんが宇宙に向けて飛び立ちました。94年のきょうです」。7月8日だったんだ。やはり今日、書こう。頭の中で千秋さんとの対談風景をダウンロードする。あの対談の終盤の様子がまず浮かんだ。

 「その話は古事記ですよね」。日本は大八洲(おおやしま)でできている。つまり、本州など八つの島で構成されている。「宇宙から見ると“まさに”そう見えるんですよ。その当時に誰が見たんでしょうね」と。「う~ん、誰が、でしょうね」。宇宙飛行士の千秋さんが(古事記を)書いたわけではないのは確かだ。では誰が見たのだ、と考え始めると、「う~ん」と唸ったきり今に至っている。古事記をひも解いてみる。その件は確かに上巻に記してある。伊邪那岐命と伊邪那美命の国生みの話だ。淡路島にある伊弉諾神宮のサイトから一部を書き写す。『二柱神は天浮柱に立ち、天沼矛で大海原をかき回し、矛の先から滴り落ちた雫が「淤能碁呂島」となる』。この島に降り立った二神が国生みをする。淡路島が最初にでき、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州ができる。北海道がないことに、より信憑性を感じる。このままでは落ち着かないので、「宇宙で誰かが見ている」としよう。

 そういえば、あの話は千秋さんの可愛い自慢話だよな、と思った。「私、いいもの着ないんですよ」との前ぶりはともかくとして、「このジャケットは小さく丸めてパッキングできるんです。それに濡れないでしょ。山に登る人がやりますよね」と得意げで、宇宙に行く時も、と言いたげだった。両手でギュギュッと丸めてジップロックに詰め込んで、さらにギュギュッと空気を抜いて、サッとジッパーを締める。この便利さは山登りが好きな私には身に染みている。宇宙も山登りも共通点があるんだ、と思うと宇宙が突然身近になってきた。宇宙飛行士としての知識、体力、操船技術は想像を超えている。が、身支度、身繕いは似ているんだ。歯は磨くのだろうか? 次回、お会いした時の質問にしよう。千秋さんの代名詞は「日本人女性初の宇宙飛行士」だ。最初は94年7月8日にコロンビア号で飛び立った。2回目は98年10月30日、ディスカバリー号で宇宙に向かった。この時、ケネディ宇宙センターではロケット発射をご家族が見守った。時に気丈な母親は発射のカウントダウン、『5まで来た時、無意識にやめて、やめてー!って叫んでいた』(『娘は宇宙飛行士』角川書店刊)。千秋さんは兄弟全員に短い手紙を残していた。「宇宙の塵になったら、お母ちゃまをよろしく」、と――。

 いつもならこのあたりで筆を収める。ところが秋田駅にほど近い茜屋珈琲店に入った時に安倍晋三元首相の心肺停止のニュースに接した。夕刻に死亡。このコラムの組み立てが変わった。「7月8日は何の日」。1864年(元治元年)には池田屋事件が起きた。そうだ、歴史は積み重ねられていくのだ。ご冥福をお祈りします。

千人回峰 伊弉諾神社 宮司 本名 孝至
(上)
https://www.bcnretail.com/hitoarite/detail/20200807_186010.html
(下)
https://www.bcnretail.com/hitoarite/detail/20200821_187503.html  
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第309回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

向井千秋

(むかい ちあき)
 1952年、群馬県館林市出身。77年、慶應義塾大学医学部卒業。同年、医師免許取得。同大学医学部外科学教室医局員として大学およびその関連病院での診察に従事。85年、宇宙開発事業団(現宇宙航空研究開発機構、JAXA)の第1次材料実験・搭乗科学技術者(科学宇宙飛行士)として選定され入社。94年、第2次国際微小重力実験室(IML-2/STS-65)計画でスペースシャトル・コロンビア号に搭乗。宇宙の微小重力環境の下、微小重力科学、生命科学、宇宙医学に関する82テーマの実験を遂行。98年、STS-95宇宙飛行計画でスペースシャトル・ディスカバリー号に搭乗。宇宙医学や生命科学分野の実験を実施。国際宇宙大学教授、JAXA宇宙医学研究センター長を経て、2015年、東京理科大学副学長に就任し、16年より同学特任副学長を務める。