本土伝来から100年 空手の本質は勝つことではなく身を護ること――第310回(上)

千人回峰(対談連載)

2022/07/22 08:10

和田光二

和田光二

三田空手会 副会長

構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一

週刊BCN 2022年7月25日付 vol.1932掲載

【東京・三田発】
私は母校である三重県伊勢市にある皇學館大学の評議員を務めているが、伊勢在住で評議員仲間の橋本和久さんから『空手道 その歴史と技法』(日本武道館発行・ベースボール・マガジン社発売)という本をいただいた。後日、「この本の共著者の和田さんという方はすごい人ですね」と感想を述べると「慶應空手部の同期なんですよ」と橋本さん。せっかくの縁だ。ぜひお会いしてお話を聞きたいと思い、今回この対談が実現した。また一人、レジェンドに会うことができた。
(創刊編集長・奥田喜久男)

兄に負けたくない一心で
空手の稽古に励む

奥田 和田さんは、1970年に行われた第1回の世界空手道選手権の個人戦で優勝、団体戦でも準優勝という輝かしい戦績を残されています。世界選手権のお話は後でじっくりとうかがいますが、そもそも空手を始めたきっかけはどんなことだったのでしょうか。

和田 4学年上の兄が慶應義塾普通部(中学校)から慶應義塾高校に進んで空手部に入ったのですが、兄には負けたくないという思いから、私は普通部に合格するとすぐ空手部に入りました。当時は空手が好きというよりは、強くなりたいという気持ちのほうが強かったですね。

奥田 なるほど、お兄さんへの対抗意識ですね。

和田 父は慶應義塾の職員だったので、兄の普通部入学をきっかけに、川崎市の生田から日吉の校地内の官舎に引っ越しました。私が小学校6年生のときに兄は高校に進んだのですが、このままでは兄に一生勝つことができないと思い、毎朝、家の前の競技場のトラックを走ったり、竹刀の素振りをしたりしてから小学校に通いました。また、近くの蝮谷にある空手道場に行き、高校生の兄や大学生たちが稽古している様子を見たりしていましたね。

奥田 とても身近なところに、空手に親しむ環境があったのですね。ところで、お兄さんとけんかするようなことはなかったのですか。

和田 私が普通部3年生のとき1級を取得したのですが、兄は大学1年生で2級でした。もともと中学と高校・大学の級の基準は異なるのですが、このとき私はついうっかり「お兄ちゃんより僕のほうが強い」と言ったところ、兄の逆鱗に触れ、「表に出ろ!」と。  もちろん、中学生と大学生ですから勝負になりません。でも、いくら兄の拳や蹴りを受けても、私は負けを認めなかったんです。これ以上続けたら危険だと感じた兄は「引き分けにしよう」と言ってくれたのです。兄は最後まで意地を張り通した私を評価してくれ、私は兄の優しさを身に染みて感じました。それ以来、兄とけんかしたことはありません。

奥田 やはり世界選手権で優勝するような方は、相当な負けず嫌いなのですね。でも、一般的な慶應のイメージはとてもスマートで、空手のような武道とはあまり縁がないように思っていました。

和田 そう感じられるのもわかりますが、大学で最初に空手研究会(当時は唐手研究会)ができたのは、この慶應義塾なんです。

奥田 それは意外ですね。

空手こそが心と身体によい武道だ

和田 空手道の発祥は、沖縄が琉球王国の時代に明から伝わった中国拳法を進化させた護身術といわれています。いまからちょうど100年前、沖縄出身の武道家、船越義珍先生が第1回運動体育展覧会で日本本土に空手を紹介しました。その船越先生の東京での稽古に集まったうちの一人、慶大の粕谷眞洋教授が慶應義塾の学生を集め、1924年(大正13年)に空手研究会を発足させました。その後、東大、拓大、早大、日本医大、法大などさまざまな大学に空手研究会ができていったのです。

奥田 慶應は空手のルーツ校でもあるのですね。

和田 そうですね。慶應が最初に空手を広めたことから、現在も世界空手連盟(WKF)事務総長を務める奈藏稔久氏をはじめ、空手界の要職に多くのOBが就いています。

奥田 ところで、和田さんは現在に至るまで空手の稽古を続けておられますが、空手の効用というか、そのメリットはどこにあるとお考えですか。

和田 ひと言で言えば、心と身体によいということですね。先ほどお話ししたように空手は護身術ですから、もし力づくで何かされそうになったとき、徒手空拳でも対応できるという自信がつきます。気持ちに余裕ができるわけです。  そして、空手は基本的に相手を叩くことはしません。競技空手の試合は“寸止め”ルールであり、ボクシングのようにパンチを浴びせて決着をつけるような格闘技とは異なります。たしかにボクシングは見ていて面白いとは思いますが、ノックアウトされた側には身体的なダメージが残るため、私はこの競技に懐疑的です。そうした意味からも、空手は身体によい武道といえるでしょう。

奥田 そういう考え方は、若い頃から身につけられていたのですか。

和田 いいえ、若い頃はひたすら「強くなりたい」と思っていただけですね(笑)。還暦を過ぎた頃からようやく「どちらが強いと決めることに意味はない」と思えるようになってきました。  慶應空手部の初代師範となった船越先生は、その「空手道二十ヶ條」の中で、「勝つ考へは持つな負けぬ考へは必要」と述べています。つまり、空手は護身術なのだから相手を打ち負かす必要はない。ただし、相手にやられないように備えておくことが肝要だということですね。

奥田 年齢を重ねるごとに、空手の本質に近づいていかれたのですね。

和田 実は、もともと空手には一対一で正々堂々と戦うといった発想はないんです。

奥田 えっ、そうなのですか。それはちょっと意外ですね。

和田 そして、身を護るためには何を使ってもいいという考え方があり、空手にも棒、釵、ヌンチャクなどの武器があります。もちろん競技空手の試合で使うことはできませんが、これらの武器は琉球古武術の時代から伝わってきたものなのです。

奥田 自分から相手を攻撃してはならないが、やられそうになったら、どんな手を使ってでも身を護ると……。

和田 船越先生の「二十ヶ條」には「空手に先手なし」という言葉もあります。まさに、空手が護身術であることを表現しているといえるでしょう。そして、「空手の修業は一生である」「空手は湯の如し絶えず熱を與えざれば元の水に返る」というのも船越先生の言葉です。

奥田  いくつになっても稽古を怠ってはいけないということですね

和田 木曜会というOBの練習会が毎週あるのですが、参加メンバーの最年長は岩本明義先輩、93歳です。ガンの手術を4回も経験された方ですが、いまでも私が受けきれないようなキレのよい動きをされます。それは、筋力が落ちても、身体の使い方をずっと覚えているからです。その姿を見て、空手は力ではないということを改めて教えられました。

奥田 93歳ですか。それはすごい。空手の奥深さを感じさせるお話ですね。(つづく)

第1回世界選手権とマスターズ優勝時の和田さんの雄姿

 左写真は、1970年に行われた第1回世界空手道選手権個人戦決勝での和田さん(右)。右写真は、2008年の第9回日本スポーツマスターズ空手道組手4部決勝での和田さん(右)。52年前の世界選手権は、防具なしの「素手」「素面」で行われていた。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第310回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

和田光二

(わだ こうじ)
 1949年、神奈川県川崎市生まれ。72年、慶應義塾大学経済学部卒業。味の素川崎事業所次長兼総務部長、日本道路公団広報室長、国際武道大学非常勤講師などを歴任。69年、全日本学生空手道連盟代表団メンバーとして米国遠征。70年、第14回全日本学生空手道選手権優勝。全日本学生空手道連盟代表団メンバーとして欧州遠征。第1回世界空手道選手権団体戦準優勝、個人戦優勝。71年、第15回全日本学生空手道選手権優勝。現在は、三田空手会副会長・進級昇段審査委員長、全日本空手道松濤館常任理事・関東地区協議会議長、明治薬科大学空手部師範を務める。全日本空手道連盟公認七段、三田空手会七段、全日本空手道松濤館七段。

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