繊維の町に生まれ 新たなアパレルの世界に飛び込む――第295回(上)

千人回峰(対談連載)

2021/11/19 00:00

石黒 崇

石黒 崇

小島衣料 代表取締役

構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一
2021.10.11/東京都中央区の小島衣料東京事務所にて

週刊BCN 2021年11月22日付 vol.1900掲載

【日本橋箱崎町発】今回登場していただいた石黒崇さんは、繊維産業のメッカともいえる「尾州産地」の出身だ。私も岐阜出身であり、この土地にはとてもなじみがある。実は10年ほど前、互いに付き合いのあるアジアビジネス探索者で週刊BCNの「視点」の筆者である増田辰弘さんの縁で、小島衣料のオーナー小島正憲さんにこの対談への登場をお願いしたことがある。そのときは体調がすぐれないとのことで実現はかなわなかったが、今回、まったく別のきっかけでその会社の現社長にお話をうかがうことになった。人の縁というものは面白い。
(本紙主幹・奥田喜久男)

2021.10.11/東京都中央区の小島衣料東京事務所にて

父の背中を見つめつつ「糸へん業界」を選択する

奥田 現在、石黒さんは岐阜市に本社がある小島衣料の5代目社長を務められています。創業家のご出身ではないということですが、まず、ここに至るまでの経緯についてお話しいただけますか。

石黒 私は2002年に小島衣料に入社し、13年に社長に就任しました。おっしゃるように、創業家との血縁関係はありません。当社は、主に女性向けのコート、スーツ、ジャケットといった「重衣料」の縫製を手がける会社で、この分野では日本一の規模となっています。

奥田 岐阜や愛知の一宮あたりは、かつて繊維産業が栄え、「ガチャマン景気」をもたらした地域の一つですね。

石黒 そうですね。私は一宮市出身で、父はテキスタイル(生地)の仕事をしていました。

奥田 ということは、子どもの頃からアパレル業界にはなじみがあったのですね。

石黒 はい。でも、ガチャマン景気は1970年頃に終息し、その後のオイルショックや繊維不況の影響で、叔父が立ち上げ、父も一緒に働いていた生地屋が倒産してしまいました。それが、1979年、私が16歳のときのことです。

奥田 それは経営の巧拙の問題ではなく、大きな不況の波に呑み込まれてしまったということですね。

石黒 ええ、でも父は潰れた会社の部下3人を引き連れて、自宅の前に事務所を構えて、テキスタイルの仕事を再び始めました。当時、父は50歳でしたが、やはり長年携わった愛着ある仕事から離れられなかったのでしょう。

奥田 お父さまが再起されるところを、高校生の石黒さんは目の当たりにしていたのですね。

石黒 実は高校を卒業したら、進学せずに働こうと思っていたんです。ところが、父は「何をバカなことをいっているんだ。おまえを進学させるくらいのゆとりはある」と激怒しました。

 実際、通っていた高校は進学校で、ほとんどの生徒は大学に進んでいました。そんなこともあり、いくつかの大学を受験し、愛知学院大学に入りました。もっとも、大学に入ってもアルバイトばかりしているダメな学生でしたが(笑)。

奥田 大学を卒業されて、最初に就職したのはどんな会社でしたか。

石黒 やはりアパレル企業です。小島衣料は業界の川上にあたる縫製業ですが、最初に入った会社は同じアパレルでも川下の業種で、レディス衣料の企画・卸売をしていました。いまはなくなってしまいましたが、当時は岐阜最大のアパレル企業でした。

奥田 アパレルを就職先に選んだのは、お父さまの影響ですか。

石黒 将来的に家業を継ぐのか、別の会社でキャリアを重ねるのか、大学卒業時に決めていたわけではありませんでした。でも、いずれの道を選ぶにしても「糸へん業界」に身を置いたほうがいいだろうという判断はありましたね。

人生の分岐点となった「社長募集」の求人

奥田 家業のことを心配しながら就職活動をされた、と。若いうちから、先々のことをしっかりと見据えていたのですね。

石黒 いやいや。学生時代に親に心配をかけるようなことばかりしていたので、社会人になったら親孝行しなければという気持ちがあったのです。だから、継ぐことも自然と視野に入っていたということですね。

奥田 なるほど。そうした経緯があって、まずは就職されたわけですね。最初の会社では、どのような仕事をされたのですか。

石黒 営業職を7年、その後は企画やブランドマネジャーの仕事に携わりました。15年間、その会社に勤め、同期でも昇進が一番早く、順調な会社員生活だったのですが、このままでいいのかと考えるようになりました。そんな頃、父からは「家業は自分の代で終わりにするから、継ぐことなど考えなくていい」といわれたのです。

奥田 ある意味、フリーハンドになったのですね。

石黒 そうですね。ならば、真の意味で自分の人生を生きようと思いました。

 実は、大学を卒業して就職したときから「35歳までに、自分の行くべき道について決断しよう」と考えていたのです。

奥田 どうして35歳なのですか。

石黒 他業種に移るとしたらそのあたりが年齢的に限界ですし、大学卒業後のおよそ10年、仕事のなかでいろいろな経験やキャリアを積んでから、いまやっている仕事が本当にふさわしいのか判断しようと思ったわけです。

奥田 ということは、アパレルから離れることも選択肢にあったと。

石黒 そうですね。もちろん、最初の会社に残る選択肢もありました。でも、同族企業なので社長になることは望めず、役員を目指すか、これまでのスキルを活かして他社に移るかなどと思案していたわけです。

 そんななか、自分の市場価値を測ろうと転職活動をはじめ、ひそかにいろいろな会社を訪問して自分の評価を探るようになります。会社によっては自分のことを高く評価してくれる、つまり現状より高いサラリーを払ってくれるというところもあれば、いまの自分のレベルでは飛躍できないなと思う会社もありました。

奥田 そう考えるようになったきっかけは?

石黒 正直なところわかりません。ただ、30代前半になってから真剣に考えるようになったことはたしかですね。

奥田 長期的な、先を見据えた「志」はありましたか。

石黒 できれば自分で会社をやりたい、社長になるというよりは経営者になりたいという気持ちはありましたが、それほどリアルには考えていませんでした。

 ところが、私は人材紹介会社にも登録していたのですが、そこから紹介された企業、つまり小島衣料が「社長募集」をしていたのです。2000年代初頭にファーストリテイリングの柳井正社長が若い世代に任せようと玉塚元一氏にその座を譲ったことがありましたが、まさにそんな時期でした。

 でも、同じ岐阜のアパレル業界にいながら、その「小島衣料」という会社の名を私は知りませんでした。私が抱いていた縫製業のイメージは「きつくて低賃金の家内工業」でしたから、そんな会社の資料などいらないと、一度は拒否したほどだったんです。(つづく)

P・F・ドラッカーの著作

 「この三冊で自分の思考回路ができたといっても過言ではない」と語る石黒さん。悩んだときや迷ったときに、いまでも読み返す。すると、目の前の霧が晴れたようになるのだという。どおりで、こんなにたくさんの付箋がついているはずだ。いわばこれらの本は、石黒さんにとっての経営やマネジメントのメンターなのだ。
 
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第295回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

石黒 崇

(いしぐろ たかし)
 1963年、愛知県一宮市生まれ。87年、愛知学院大学商学部卒業後アパレル業界に入り、2002年に小島衣料へ転職。08年、グループ子会社TFF代表取締役社長。12年、グループ3社の代表取締役社長に就任。13年、小島衣料代表取締役社長就任。同年、売上高を過去最高へと導く。