大塚商会では、毎年、年頭スローガンを発表しており、その中には「信頼」の二文字が必ず入っている。会社として大切にしていることを掲げ続けているのだろう。大塚社長は、「方針はほとんど変えない。職人が本当の技を身につけるためにコツコツと何十年も基本を繰り返して修業することを考えれば、毎年のようにコロコロと方針を変えるのはおかしい」と語る。変革すべきことと変えてはならないことを峻別することも、経営者にとって大切な才覚であることを改めて感じた。(本紙主幹・奥田喜久男)

2019.4.23/東京都千代田区の大塚商会本社にて

マインドが変わることで人は成長する

奥田 大塚さんは、横浜銀行に勤務された後、リコーを経て、1981年に大塚商会に入社されますが、当時はどんな状況だったのですか。

大塚 大塚商会ではパソコンショップの仕事をした後、新設された営業部を率いることになり、月次決算に一喜一憂しながらやっていました。

奥田 スタートは順調でしたか。

大塚 いいえ、最初は潜水艦のように潜ったまま上がってきませんでした。そういう業績のときにどう我慢して、どう変えていくか悩みましたね。現実はなかなか厳しくて、7月にその新しい営業部を抱えて、そこから翌年1月くらいまで潜りっぱなしなんですよ。

奥田 半年たっても潜ったままだと。

大塚 営業活動というものは、もちろん最終的には売ることが目的となるのですが、その前にお客様からアポを取って何件デモンストレーションができるかといった活動の目標を実績の目標とともに出すんです。ところが、1月半ばくらいになると活動の目標も全然達成できなくなってしまったんです。このとき、私ははじめて営業部会で激怒しました。「売ってこい」とは言いませんでした。ただ「努力してやれることをやれないというのはおかしい。いやだったらこの部から出て行け」と。

奥田 何人くらいの部ですか。

大塚 当時、100人くらいいましたね。その場はシーンとして、誰も出て行かなかったので、「じゃ、一緒にやろう」と。それで、その翌月からそれまでの活動目標、たとえば月間7件から8件デモンストレーションをしないと予算に届かないという計算だったのですが、8だったものを4にするとか、6を3にするとか、目標を半分くらいに下げちゃったんですよ。その代わり、嘘はつかないでねと。

奥田 なるほど。

大塚 そうしたら、ちょうどフェアも2月に開かれたこともあって、少し手応えが出てきて、そこからグーっと伸びていきました。

奥田 何が変わったんでしょうか。

大塚 マインドですね。

奥田 部下たちの気持ちに変化が起こった、と。

大塚 変わってきましたね。「人は成長するよ。その成長をアシストするから、自己記録に挑戦しよう」というように指導したことで、だんだん上がってきたのです。

 それから、かつては月間目標を達成できなかった人を集めた未達者会議を開いていたのですが、それを止めて達成者会議にしました。達成者だけを集めて、6時から30分くらい、缶ビールをシュポッとやって「ご苦労さん」と。6時半には会議を終わらせて、あとは自由だよという形をとりました。それが、昭和から平成になった頃のことです。未達者会議がなくなったら未達者が喜ぶだけではないかと心配していた人もいたのですが、達成者会議がステータスになって、それに出たいという気持ちが、いい回転につながっていったのです。

奥田 どうやって、そういう手法を編み出すのですか。

大塚 なんとなく、ビビッと感じるんですね(笑)。

先代とは、親子喧嘩ではなくビジネスマンとしての勝負を

奥田 ところが、90年にいったん大塚商会を辞めて転職されますが、その理由は何だったのですか。

大塚 まあ、親子喧嘩ですね。

奥田 会社を辞めるようなレベルの親子喧嘩ですか。

大塚 その理由はまたの機会に譲るとして(笑)。入社したのはバーズ情報科学研究所という会社で、在籍していたのは1年半くらいですが、中身は濃かったですよ。役員ではないけれど、開発から販売までの総責任者になり、社長から役員以上にいろいろと相談されましたから。

奥田 ということは、辞めるときは本当に戻らないつもりだったのですか。

大塚 そうです。何の未練もなかった。

奥田 それでも、結果的には92年に戻られますね。

大塚 1年ちょっと過ぎた頃に、会社(大塚商会)に顔を見せろと。そこで、帰ってこないかという話があったのですが、帰るつもりはありませんでした。ところが、父が菓子折を持って私の勤務先に来てしまい、双方のトップ同士の話になってしまったんです。

奥田 いくら社長同士が決めたとしても、どうしてそこで戻ろうと思ったのですか。

大塚 戻らないとは言いつつ、私は大塚商会が好きでしたからね。何も、弓を引くようなつもりはないし……。

奥田 なるほど。

大塚 それで戻ったら、先ほどお話ししたバブル後の会社の立て直しです。ある意味では、それまでの常識や成功体験が通用しなくなってしまった時期でした。だから「大戦略」による改革の必要があったのですが、自分にとって、社長になることを本当に意識したのは、このときだったと思いますね。

奥田 今年、日本コンピュータシステム販売店協会(JCSSA)の会長を退任されますが、大塚商会のほうのバトンタッチもいずれ考えなければいけませんね。

大塚 社内の次のリーダー育成をどうしていくかということですね。いきなり外からどうぞといっても、うちの文化からいって難しいと思います。たまたま私はいろいろ経験してきたけれど、うちのビジネスのすべてが分かる人ってあまりいないんですよ。

奥田 楽しみですね。大塚さんがどうやって育て上げられるのか。

大塚 まずは次の役員候補を決め、その中から上に挑戦させていく、と思っているんですけれど、まだまだこれからですね。

奥田 もう親子喧嘩はないですね。

大塚 もうないです(笑)。これから喧嘩してもしょうがないですからね。若い二世経営者から、どうやってうまくやってきたのですかと聞かれるのですが、個人的には、社会人になって父親と同じ会社で働くということは、「ビジネスマンとビジネスマンの戦い」になると答えています。

奥田 なるほど。

大塚 そこは親子喧嘩ではなくて、ビジネスマンとしてのスキルとか、ビジネスマンとしての可能性のところで競争すべきなんです。そこを変に履き違えちゃうと、単純に「親子喧嘩だからしょうがないな」というように捉えられてしまう。

奥田 リングの上に上がったら対等だと。

大塚 ビジネスマンとして勝負しても、親子としての勝負はそこでやる必要はないと思いますね。


こぼれ話
 写真には人の味わいが染み込む。同じ時、同じ場所であっても表情は変わる。そこには瞬時の表情と奥深い表情がある。今回は現在と2年半前の写真を掲載した。それぞれから二つの味わいを引き出してほしい。柔和な表情は一段と深さを増している。その中には優しさというよりも思いやりのほうを強く感じる。創業家の大塚ファミリーの方々とは半世紀のおつき合いだ。私の記者人生は大塚商会とともにあったと言っても過言ではない。

 事務機、複写機、コンピューター、インターネット、IT、クラウド、AIの時代へと、企業活動のステージは10年刻みで新しい展開を迎えている。所有からシェアリングの幕開けも大きな変化だ。今さらだが、変化の源は経営哲学にある。しかし、哲学だけでは企業活動を具現化することはできない。テクノロジーが業務形態の変化から産業の構造をも進化させている。そうしたマグマの胎動をどの時点で感知し、潮流となる前に事業構造を的確に順応させていくか――。大塚創業家は勝つための打ち手が実に的確だ。

 創業者は大塚実。屍を踏み越える激しい戦いと敗戦を体験し、戦後日本の復興を心に秘めて生きる。この世代の経営者には厳しくて強い人が多い。特に創業者は別格だ。裕司さんは実さんの長男で事業承継者だ。父子にはいくつかのドラマがある。承継を終え、新体制で漕ぎ出したものの、創業者の事業を思う炎は燃え盛ったままだ。またドラマが生まれる。繰り返しながら社内外の目は裕司社長に向く。業績を伸ばしながら、いつのまにか不動の地位を築いた。別れ際のことだ。

 「ねぇ奥田さん、父に『よくやったな』って言ってもらってもいいよねぇ」。心がしびれた。
 
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第238回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
  • 1