今年6月、松波さんは14年間務められた日本コンピュータシステム販売店協会(JCSSA)の専務理事を退任される。かつてパソコン販売の中核的な存在だったラオックスの「ザ・コンピュータ館」を率い、今日に至るまで「秋葉原の生き字引」的な存在として業界の発展に貢献してこられた松波さんだが、栄枯盛衰の激しい世界に身を置いてきたにもかかわらず、恬淡(てんたん)としたスタンスは変わらない。「ザ・コンが終わっても、自分にとってはどうってことはない」とさらりと語るところがおそらく非凡なのだ。(本紙主幹・奥田喜久男)

2019.2.7/BCN22世紀アカデミールームにて

松波無線の流れをつないでもらいたいという思い

奥田 松波さんは大学を卒業した後、ソニーに入社し、その4年後にはお父さんの経営する松波無線に入られますね。お父さんはどんな人だったんですか。

松波 一緒に仕事をしたことのある人は、織田信長みたいな人と言いますね。言い出すと聞かないし、裸馬に乗って勝手に行っちゃうから、後をついていくしかない。そういうタイプです。

奥田 この本(私家版の『父と私の履歴書』)には、そのお父さんの生きざまや松波さんとの確執が、すごく正直に描かれていますね。

松波 私のところには娘しかいないのですが、弟のところには息子が3人いるんです。つまり、松波の家を継ぐのはその甥たちになるわけですが、親父と私がやってきたことを彼らに理解してほしいという気持ちでこの本を書いたのです。だから、親父に何か言われて、私がそれに反抗したかとか、正直に書かざるを得ないわけですよ(笑)。

奥田 どうして、そんなに継いでもらいたいという意識が強いのでしょうか。松波家とは、どんな存在ですか。

松波 なんでしょうね。1982年にラオックスと松波無線が合併して店頭公開しました。それによって得た資金を、親父は米国のショッピングセンターに投資したのです。要するに、そのショッピングセンターは、松波無線が形を変えて存在しているものといえるわけです。そういう意味で、親父が作った松波無線の流れをつないでもらいたいという思いが強いんです。

奥田 ショッピングセンターの経営は?

松波 弟とその長男がやっています。

奥田 つまり、その流れは甥御さんがつないでいくわけですね。その松波無線の流れを途絶えさせないために大切にしているものとか考え方といったものはありますか。

松波 親父は、人を裏切って儲けるとか他人の株で利益を得るということが嫌いです。だから、ラオックスの株も上場する前に売ってしまいました。要するに、自分で商売して稼ぐんだという考え方を貫いたわけです。だから、実業をやる人は大好きでしたね。

 甥たちは、そういうことを言わなくても分かっていると思いますが、この本を読んでそれを実感してほしいですね。もちろん、彼らも人様に迷惑をかけて儲けるようなことはしないと思いますが。

ザ・コンピュータ館が終わっても挫折感はない

奥田 松波さんを語る上で欠かせないのがラオックスのザ・コンピュータ館(ザ・コン)ですね。

松波 ザ・コンは1990年4月に誕生して2007年9月に閉店しましたが、初年度は32億円稼いで、最後は70億円。ピークは330億円まで行きましたね。

奥田 ザ・コンといったら当時のPC販売店のスーパーヒーローじゃないですか。松波さんが立派だなと思ったのは、そのトップで仕事をされて一時は成功し、やがてそれが駄目になったにもかかわらず、心のひだを本当に素直に表現されておられることです。

松波 いや、私は自分だけの力でザ・コンを作ったとは思わないし、ほかにもものすごく現場で苦労した人がいるわけですよ。だから成功したときも自分だけの手柄とは思っていません。ただ本にも書きましたが、CSEという人材教育だけは私の手柄だと思っています。

奥田 悪くなっていくときのことも、淡々と書かれています。

松波 松波無線がラオックスと合併して、ザ・コンができて、それが終わっちゃって元の木阿弥ということですが、元と同じステージにいるのだから、自分にとってはどうってことはないんです。

奥田 普通はそう思わないですよ(笑)。

松波 ザ・コンは本当にみんなで作ったものですし、いい思い出にはなっているけれど、挫折感があるかと問われれば、そういうものはないと。

奥田 それはどうしてでしょうか。

松波 そこが、親父が歯がゆく思っていた部分でしょうね。例えば「おまえは勝ちたくないのか」とか「儲けたくないのか」という言い方を親父ならすると思う。それと同じことを、奥田さんは指摘しているのでしょう。

奥田 そうですね。そう思う人のほうが多い気がします。

松波 そういうことは、もっとアグレッシブな方がどんどんやっていけばいいわけで、私はそういうタイプとはちょっと違うかなというだけです。もちろん負けようとしてやる仕事なんかないですよね。だけど、結果として運不運があって、負けちゃうこともあるわけです。それは仕方がないじゃないですか。反省して、どこが敗因だったかを分析して、次に備えるしかないんですから。

奥田 松波さんの本を読んでいると「事業が成長するのも一つの現象、急降下するのも一つの現象」と考えているように感じたんです。どうしてそんなに、どこかのお坊さんのように達観できるのですか。

松波 それは中村天風の影響ですね。天風式を実践しようと思っていますからね。「怒らず恐れず悲しまず」ですよ。

奥田 ところで、日本コンピュータシステム販売店協会(JCSSA)の専務理事を退任されるとのことですが、この先、あと10年、どんな仕事をされるのですか。

松波 実はこれまでも、次にどうしようって、あまり真剣に考えてこなかったんです。ラオックスを辞めたのが04年で、05年にJCSSAの専務理事になったのですが、ラオックスを辞めた後しばらくは中小企業診断士の仕事をしていました。そんなとき、九十九電機の鈴木淳一社長(当時)から、専務理事の体調が悪いのでその後任を引き受けてくれないかと打診があったんです。中小企業診断士なんて全然金にならないとカミさんに言われて、それならば宮仕えをしましょうと。そこからあっという間に14年が経ってしまいました。だから、それほど力まなくても、また何かあるだろうと思っています。

奥田 この先のご自身の目標や夢は? 

松波 私の趣味は天風会ですから、そこでのおつき合いがとても楽しいし、満足しています。仕事の面では、中小企業診断士としてお声がかかれば、どこでも飛んでいきますよ。それから、JCSSAの専務理事を退任しても事務局のお手伝いはします。私が就任した頃に比べて委員会や行事の数が増えており、なかなか忙しいですから。

奥田 お互いリタイアはまだまだ先ですね(笑)。

こぼれ話

 “クンバハカ法” 'という言葉を聞いたことはありますか。呼吸法なんですよ。私は40代前半、この言葉に出会いました。起業して10年ほどのことです。当時は人事の問題、お金のやり繰りに追われながら、それらの事情を考え込み始めて出口のないブラックホールの中で喘いでいた頃、身近な人から『成功の実現』という書籍を紹介され、著者の中村天風って誰だ?と訝しく思いながら読み始めたことを思い出します。

 読み始めて、天風が伝えたいことは何かということに気づいてから、真剣度が増した。天風会の存在も知った。以来、天風の「日常の心得」を習慣化することに励んだ。例えば、「暗示の分析」では、他からの暗示事項を常に分析し、積極的なものは取り入れ、消極的なものは拒否する。「三つの禁止」は、今日一日、怒らず、恐れず、悲しまずの実行。

 松波道廣さんは天風会の指導員である。このことを今回初めて知った。話を聞くうちに「道理で、なるほど」と松波さんの行動原理に行き着いたと思った。同時に腑に落ちたことも多く、私の描いていた松波像がいかに本質とかけ離れていたものかを知って恥じた。別れ際にその指導員からポケット版天風語録の『天風誦句集』をいただいた。「奥田さん、これあげるよー」。嬉しかった。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
主幹 奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。