「どこでも売っているものをFCで取り扱って成功するはずがない」「モノが普及した今、川上のメーカー情報だけでは売れない。いかに川下のお客様情報を融合するかだ」──。商売の本質をズバリと衝く三浦さんの言葉には、随所に正確な数字がちりばめられている。40年前の数字も現在の数字も自然に口をついて出てくる。失礼ながら御年78歳とは思えない明晰さだ。別れ際、「お仕事はいつまで?」と問うと「まあ、死ぬまででしょうな」とさらりと返された。(本紙主幹・奥田喜久男)

左 「(家電店を)“助ける”という言葉は使うなと、ある人に忠告されて、その通りだと思いました」と振り返る三浦さんは、家電店が競争できる舞台づくりに撤しているそうだ。
写真1~3 家電業界の置かれている現状をデータで示しながらも、三浦さんの目は将来の展望に向かっている
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第129回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

最初の動機は「弱者救済」だった

奥田 社長を引き受けた豊栄家電が「死に体」だったとは穏やかでありませんね。

三浦 私が社長に就任したのは1999年12月ですが、この時点で97店舗、年商が90億円程度でした。ピーク時は110店舗ほどあって、年商は285億円ほどでした。コスモス・ベリーズをつくる寸前には57店舗と、6年間で40店舗減ってしまった。売り上げも当然落ちてきますから、このままいくと解散しなければならない。そう告げたら、いまさら解散されたら自分たちはどうなるかと、残る57店舗の人たちは言います。そこで私は、他の量販店との共同事業や合併を模索したのですが、続けざまに倒産されてしまいました。単純な話ですが、それならば潰れないところとやろうと考えたんです。一番勢いのあるヤマダ電機だったら大丈夫だろうと。

奥田 2005年にコスモス・ベリーズができたとき、ヤマダ電機はどれくらいの規模だったんですか。

三浦 年商1兆円に達していました。交渉のなかで、山田昇社長はFCの話に興味を示してくれました。当時、ヤマダ電機はコスモス事業部という部署をつくって、自分でFCをやろうとしていたんです。ところが経験がないためうまくいかない。そんなとき、ひょっこりとFCの豊栄家電が現われた。そこで、ヤマダ電機のコスモス事業部とベリーズ豊栄というブランドを合わせて、コスモス・ベリーズという合弁会社ができあがったわけです。

奥田 うまくタイミングが合ったんですね。

三浦 ああいうことは運もあるんですね。ヤマダ電機がFCをやる気のない時期だったら、こんなにとんとん拍子には事が運ばなかったと思います。

奥田 なるほど。合弁会社を設立した2005年当時から現在に至るまでIT・家電の流通は変化し続けているじゃないですか。そのなかで三浦さんが取り組んでおられる「協業」は、すごく魅力的に映ります。

三浦 豊栄家電に残っているメンバーをどうするかがスタートだったわけですが、ちょうどその頃、仕入額が月50万円以下の店をメーカーが切っていったんですね。そういう人を救うコスモス・ベリーズになろうというのが最初だったんです。だから、もともとは弱者救済なんです。でも、ある人にこういうビジネスをやろうとしていると話したら、「三浦さん、絶対に“助ける”という言葉は使わないように」と。いくら落ちぶれた電器屋でも一国一城の主だと。確かにその通りです。だから、助けないけれど、競争できる舞台はつくってあげましょうと。仕入条件は個数に関係なし。1個買っても10万個買っても単価は同じ。ただ、少ししか買ってくれないところばかりでは、本部も成り立ちません。情報を送るなど面倒を見るためのお金は必要です。それが月会費の1万円です。

奥田 年間12万円というのは大きいですね。

三浦 でも、豊栄家電の最後の57店の面倒をみるためだけに本部に53人も置いたのですよ。

奥田 1店舗1人!

三浦 いいえ、例えば110店になったときも53人です。店数に応じて増えていったら、本部コストも膨れ上がるじゃないですか。だからうちの社員数は60人までで、それ以上増やしません。それは私の信念です。松下で成長・発展の後始末のリストラをしたときに感じたのは、右肩上がりのときに人を増やすのは誰でもできることで、売り上げが止まったり下がったりしたからといって人を切るというのは真の経営者ではないということ。最悪の状況を想定して、雇用を守ることができる人が本当の経営者だと思う。そう考えると、うちの場合は60人しか保障できないと思うんですね。
 

「魔除け人形」が演歌の名門を救うことに

奥田 ところで、テイチク(現テイチクエンタテインメント)では、どんな仕事をされたのですか。

三浦 当時のテイチクは松下の子会社で、毎年18億~20億円の赤字を出していました。内部留保も全部使い果たして、もう金がない状態だったんです。だから、おまえが行って再生できなかったら潰してもいい、というのが特命事項でした。私は楽譜も読めないし、歌ったこともない。そんな素人に任せていいのかと思いましたね。ただ、潰していいといわれたものの、昭和9年創業の歴史あるレコード会社を潰すわけにいかないと感じたんです。冷蔵庫や洗濯機をつくる工場だったら潰していました。でも、石原裕次郎や三波春夫など、錚々たるスターがテイチクで歌って、著作権ももっているわけでしょう。その文化価値を残さなければいけないと思ったんです。

 そのために、500人を242人にするという大リストラをやりました。「将来のために」という部分を全部切った。当時の4番打者は川中美幸ですが、その4番も不振なので3番打者を社内調達しろと。一人だけ歌がうまいのがいるというので、誰かと聞いたら天童よしみだったんです。実は天童とも因縁があって、松下の北海道の支店長だったとき、優秀店表彰のイベントに呼んでいるんです。

奥田 いまや演歌の大スターですね。

三浦 ええ。でも当時は、歌がうまいだけではダメなので、なにかプラスアルファを探せとディレクターに指示したんです。ところが、彼女は歌が好きなだけだと。そのとき「うち、歌が好きやねん」というキャッチフレーズが頭に浮かびました。ただ当時の女性演歌歌手は、藤あや子とか伍代夏子など艶っぽい美人の全盛時代です。ジャケットをどうするか。そこで、イラストで天童のキャラクターをつくれと。それをポスターやジャケットに載せたんです。もともとそのキャラクターはキーホルダー型で、それを大阪ミナミの道頓堀のギャルたちが魔除け人形と名づけてくれたんですよ。それで「珍島物語」という歌が大ヒットしたんです。通常の演歌のファンに加えて中高生が歌ってくれたから、2年連続のミリオンです。

奥田 三浦さんは天童よしみの恩人ですね。

三浦 いまのギャラは、彼女を北海道に呼んだときの15倍以上。だから御殿も建ちますよね。

奥田 三浦さんへのリターンは?

三浦 毎年「お世話になりました」と自筆の年賀状が来るんだけど、まあ、それでいいですよね(笑)。

こぼれ話

 読者の皆さまには、まず最初にお詫びをしなければいけない。この対談で、三浦さんが紡ぎ出す社会人歴60年の味わいと、話を聞きながら私が得た感銘を、紙幅の限られた本欄では十分にお伝えできていないことをだ。三浦さんとの初対面は最近のこと。2年ほど前だから、77歳と私64歳の老経営者との初対面だ。

 ある日、趣のある会食の席にはすでに座しておられた。この歳でそれもITとデジタル家電の業界にあって、年長者との会食の機会はぐっと減った。初見ともなると、機会は滅多にない。私は人に会う時、人物評価は20代の経営者と70代の方とは年齢比較ではないと、常に心がけて対面するのだが、この会食の時ばかりは心臓がバクバクした。ミシュランでいえば五つ星だ。「なぜ、これほどの人物に、これまで出会えなかったのだろうか」と自分の仕事ぶりを恥じた。時勢には三つの区切りがある。過去、現在、未来。このすべてを豊かに語る人は数少ない。別の機会に再びお届けしたいと思います。