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「苦労して失敗して道を探る」のは中国も同じ――第65回

千人回峰(対談連載)

2012/04/03 00:00

安永博信

MANBU[メディア漫歩] 上海漫歩創媒広告有限公司 総経理 安永博信

構成・文/谷口一

 安永博信さんは中国でのキャリアが長い。上海に本社を置き、北京・広州・蘇州など中国の大都市に九つの拠点を展開して、メディアの仕事を幅広く手がけておられる。また昨年の、「上海ジャパンウィーク2011」の事務局長など、さまざまな日中友好・親善のイベントの裏方としても活躍中だ。今回は真の中国通の安永さんに、中国での成功の心得や中国の現実と今後などをうかがった。【取材:2011年11月24日 中国の上海漫歩創媒広告有限公司オフィスにて】

「全世界の人たちが、『日本のものはいいね』と言ってくれるような製品やサービスを、どんどんつくり続けていってほしいです」と安永さん
 
 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
 
<1000分の第65回>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

日中の文化やビジネスの橋渡し役に

 奥田 2011年の9月に、日本の復興をアピールするようなイベントを上海で開催されたということですが、そのあたりからお聞かせいただけますか。

 安永 はい。中国の人に、東日本大震災から半年が経って、日本も元気になってきているというメッセージを送ろうと、上海総領事館や上海日本商工クラブが中心となって、官民一体でやりました。そのときの事務局長を私が務めました。

 奥田 どんなイベントだったのですか。

 安永 日本からAKB48とかJ-POPのミュージシャンだとか、中国の若者に受ける人たちを呼んで、日本の若いカルチャーを伝えようと。それと同時に日本の商品や食品、製品などをもっともっと中国の若者にPRしようということで、会場は上海外国語大学にしました。大学内のコンサートホールでいろんなコンサートを開き、広場にブースをつくって日本のいいもの紹介しました。すごく人気があって、多くの人が詰めかけてくれました。

 奥田 なんというタイトルのイベントだったのですか。

 安永 「上海ジャパンウィーク2011」です。9月の17日から25日まで、1週間の会期で催しました。

 奥田 安永さんは、今回の震災後のPRというイベントだけではなく、日中のこういう友好・親善の活動も積極的に手がけておられるわけですか。

 安永 そうです。ほぼ毎年頼まれて、お手伝いさせていただいています。2010年は6月に、日中の伝統芸能の祭典をやろうというので、坂東玉三郎さんに来ていただいて、楊貴妃をテーマとする昆劇(中国の伝統演劇)や歌舞伎の公演をしていただきました。それから、能の関根祥六さんにも公演していただきました。11月には、林家三平二代襲名上海披露公演のお手伝いもさせていただきました。

 奥田 そういうイベントの事務方をこなすと、何かいい影響はありますか。

 安永 実感として、私どもは日中の文化やビジネスの橋渡しをやっているのだ、という思いは強くなりますね。そういう意味で社員のモチベーションも高まります。日本ではなかなか会えない方にお会いできたり、やろうとしてもできないイベントがこちらでは開けますし……。

 奥田 それは、安永さんだからできるのですか。そのへんはどうなのでしょう。

 安永 なぜ私ができるかといえば、私自身が中国に17年間いるからです。日本人、中国人ともに豊富な信頼のネットワークをもっておりますし、メディア漫歩の上海の社員も170人ほどいます。さまざまなサポートができますので、多方面でいろんなことが可能なのだと思います。
 

思ってもみなかった中国との深い縁

 奥田 メディア漫歩はいつ創設されたのでしょうか。

 安永 1999年の7月です。

 奥田 どんな経緯だったのですか。

 安永 私は1995年の4月にヤオハン中国に入社して、1997年9月に倒産するまでの間、ずっとヤオハンの仕事に就いていました。

 奥田 ヤオハンではどういう職種だったのですか。

 安永 企画部・財務部・経理部の中国本土の責任者を任されていました。CFOに近い立場ですね。倒産してからも残務整理などがありましたから、翌1998年の9月から10月くらいまでは関係していました。  その後、何をしようかということで悩んだのですけれど、せっかくヤオハンを通じて中国に来たので、自分がここでできることはなんだろうと考えました。でも、当時はまだ中国でビジネスを立ち上げるなどということが簡単にできる時代ではなかったのです。だから、とりあえずどんなビジネスができるかわからないので、情報発信をすることによって情報の中心にいて、自分が何をやりたいかを探す一つの手段として、メディア漫歩を始めたのです。

 奥田 ヤオハンの前もやはり海外のお仕事だったわけですか。

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