異文化を吸収、融合できたところが伸びる――第24回

千人回峰(対談連載)

2008/07/14 00:00

開發敏光

開發敏光

KKIT経営コンサルティング事務所 所長

 開發さんは、大きなものの見方・考え方のできる人だと、東芝時代から感じてきた。名前の通り、開発系を一筋に歩んで、とくにOSについては入社直後に携わった汎用コンピュータ時代から関わってきたそうだ。「異文化の融合から新しいものが生まれる」との主張にはなるほどと思った。【取材:2008年3月 28日、KKIT経営コンサルティング事務所のオフィスにて】

 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
 
<1000分の第24回>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

東芝入社直後からOSの開発にタッチ

 奥田 東芝時代は、ずっと開発系を歩いてこられたのですか。

 開發 自分の名字に触発されたのでしょうね、学生時代からコンピュータを開発したいと思っておりました。志望した東芝の試験を受けて、何とか入社することができました。1963年(昭和38年)のことですが、幸いなことに配属されたのは希望したコンピュータ設計部門でした。

 希望した部署だったけれど、当時のことですから、コンピュータについて指導してくれたり、OSとはなんぞやなどと教えてくれる人などいません。手探りで、アメリカの学術文献などを読みながら、必死で勉強して、純国産機を作りたいなと思っていました。

 1962年度からFONTAC(フォンタック)プロジェクトが動いていました。当時の通産省が補助金を出してIBMの大型機に対抗できる国産コンピュータを開発しようとの狙いで、日本電気、沖電気、富士通の3社が参加していました。残念ながら東芝は外されていたんですが、じゃあわれわれは独自にOS装備のコンピュータを開発しようやと、方式設計を始めました。
 

見積書にソフトの価格も入れようよ

 奥田 1963年というと、第二世代コンピュータと呼ばれていた時代ですね。

 開發 そうです。当時のコンピュータは科学技術計算用と事務処理用に分かれており、それぞれ独自のコンピュータ制御プログラムとかモニタなどを用意しておりました。方式設計では、当然ながら「OSをどうするか」という話になるんですが、これについてはずいぶん議論しました。1966年には私が担当した汎用型のOSを標準装備した純国産機を完成させることができました。

 とにかく、当時はソフトウェア全般が付属品としてしか捉えられていませんでした。見積書ではCPUがいくら、プリンタがいくら、ケーブルがいくらとハードウェアについては事細かに記載していましたが、ソフトはOSも含めて「その他プログラム一式」というような表記で済ませていたというのが実情で…。

 これを何とかしないといけない、ソフトも見積もりを出し、きちんとお金をもらえるようにしないとダメだという意識は開発陣共通のものでしたね。ソフトの価値が評価され、見積もり制度が定着するまで長い時間を要しました。

 奥田 OSにのめり込んでいった背景にそんな事情があったんですか。ところでいま、科学技術用、事務用という言葉が出ましたが、それを統一したのがIBMのシステム360だったんですね。

 開發 ええ、IBMが1964年5月に発表したのがIBM360シリーズで、初の第三世代コンピュータと位置づけられています。OSも汎用化が図られ、OS360という名前で発表されました。OSが市民権を持つ端緒になったことは確かで、国産メーカーも追随せざるを得ませんでした。

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