目の前に政治問題があったとしても、中国とはもっとつながっていきたい――第89回

千人回峰(対談連載)

2013/07/08 00:00

平野 洋一郎

インフォテリア 代表取締役社長/CEO 平野洋一郎

構成・文/小林茂樹
撮影/津島隆雄

 インフォテリアの平野社長は、ブログ、ツイッター、フェイスブックなどを駆使して常に情報発信をしている経営者である。彼のすごいところは、公私にわたる自身の目標をSNS上で「公約」し、それを次々と実現してしまうところにある。ビジネスの展開もさることながら、個人として自身をどのようにマネジメントし、コントロールしておられるのかに興味をかき立てられる。まさに有言実行の“肥後もっこす”に、いろいろと話をうかがった。【取材:2013年3月14日 東京・品川区大井のインフォテリア本社にて】

「中国から撤退する企業があることは、当社にとってはチャンスだと思います」と平野さんは語る
 
 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第89回>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

中国市場でひるむことはない

奥田 インフォテリアを設立されたのが1998年ですから、今年で15年目ですか。

平野 そうですね。私自身はソフトウェアを生業にしてちょうど30年になります。熊本大学を20歳のときに中退して、キャリーラボというソフトハウスを立ち上げ、日本語ワープロの開発に携わったのが始まりですね。

奥田 なぜ中退されたのですか。

平野 工学部には高価なコンピュータがありましたが、コンピュータを知っているのはクラスで私だけ。1年生は触らせてももらえませんでした。授業は極めて初歩的なレベルから始まります。だから、ソフトウェアで世界を目指すにはこんなところで時間を無駄にしていられないという思いに駆られたんです。

 ただ、父の願いは私が熊大を出て公務員になることでしたから、中退したと報告したら逆鱗に触れて家から追い出されて、1年半ほどは戻ることができませんでした。だから、会社を上場企業にしたときでさえ、ほめてもらえません。もっと努力して、自分を向上させないといけないという、無言のメッセージなのかもしれませんが……。

奥田 なるほど、それも親心かもしれませんね。ところで、このところ活発に中国への投資を行っておられますが、そのきっかけは?

平野 最初のきっかけは、上場した07年から、中国人技術者を活用し始めたことです。

奥田 技術者の活用は、雇用ですかそれともオフショア開発ですか。

平野 その中間です。直接の雇用関係はありませんが、オフショア開発のような形での詳細な仕様書は出さずに、テーマを与えてディスカッションしながら一開発部門として開発にあたってもらうスタイルをとっています。

奥田 なぜ、中国人だったのですか。

平野 募集したのではなく、ネット上で優秀な人を探しました。フリーランスのエンジニアは自分の作品をネットに上げていますし、オープンソースとして公開したりしています。そこで見つけたのがたまたま中国人で、杭州の人だったということです。現在、彼は杭州の子会社?福天(杭州)信息科技の総経理を務めています。

奥田 杭州の子会社は、昨年3月に設立されたんですね。これは開発拠点ですか。

平野 そうです。それまでに何度か杭州に行くうちに、ここを当社の拠点にしてもいいと考えるようになりました。浙江大学のような技術系に強い大学があることと、上海ほど人材の奪い合いが激しくないことがメリットです。

奥田 杭州の子会社の社員は何人ですか。

平野 エンジニアとデザイナーを合わせて約20人です。

奥田 上海にも進出されましたね。

平野 こちらは販売のための拠点で、昨年9月に営業許可が出て、11月から稼働しました。

奥田 尖閣問題の発生直後ですが……。

平野 もちろん、気にはしていました。日本から総経理を1人送る予定で、現地でも2人雇うことを決め、すでに内定を出していました。その2人に、こういう問題が起こったけれど、どうするかと聞いたところ、あれは政治の問題であって、自分たちはインフォテリアで活躍できると思うのでぜひこのままスタートしたいと言ってくれました。影響はゼロではありませんが、当社の場合は今までがゼロなので、マイナスになることはありません(笑)。成長のペースは遅れるかもしれませんが、別にひるむ必要はなく、状況に合わせてやっていけばいいと考えています。

 ご存じのように、中国人の可処分所得はどんどん上昇していて、国家間の問題があるにせよ、知識層は冷静に対処しています。この状況で中国から撤退する企業があるというのは、当社にとっては逆にチャンスだと思います。

奥田 同感です。私どもBCNも昨年末、上海に拠点を出しました。
 

外資系が強いのは圧倒的な資金調達力があるから

奥田 平野さんは87年に上京されて、外資系のロータスに入社されたのですね。

平野 24歳のときです。当時、私は日本語ワープロの開発をやっていたことから、いろいろな外資系のソフトウェア会社から声をかけてもらいました。エンジニアは本国にたくさんいるのですが、日本語技術がない。そこで募集ではなく、ピンポイントで日本語技術者をヘッドハンティングしていたんですね。

 ロータスには開発部門ではなく、マーケティング部門に入りました。私は最初、1-2-3のマーケティングを行い、その後Windowsの各種製品を担当しました。当時、日本のソフトベンダーがどんどん弱体化して、消滅していくという状況にありました。実は、自分は外資の片棒を担いでいると、内心忸怩たる思いを抱いていたんです。

奥田 片棒担いでいるって、本当にそう思っていたんですか。

平野 思っていました。私は日本から世界に通用するソフトウェアをつくりたいと考えて、その勉強としてロータスに入ったわけですから。当時の日本にだって表計算ソフトやデータベースソフトなどがありましたが、私は仕事としてそれらを駆逐していたわけです。最初は競争だと思っていたんですが、圧倒的に外資のほうが強くなってしまう。

奥田 どうしてそんなに外資系が強いのでしょうか。

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