振られてもいいからとりあえず美人に会いに行く――第159回(下)

千人回峰(対談連載)

2016/05/12 00:00

二上 秀昭

二上 秀昭

日本ブレーン 代表取締役会長

構成・文/小林茂樹
撮影/津島隆雄

週刊BCN 2016年05月09日号 vol.1627掲載

 二上さんは、故郷にいい思い出は一つもないという。男ばかりの三人兄弟の次男は、大切にされることも可愛がられることもなく、「いらんもの」だと嘆く。お父さんやお兄さんへの恨み言を平気で口にする。誤解されやすいタイプかもしれない。でも、その足跡をたどると、弱い立場にあるIT業界のプレイヤーをなんとかしたいという思いがみえてくる。修羅場をくぐった二上さんだからこそ、何度か聞いた「だって、かわいそうでしょ」という言葉に実感がこもるのかもしれない。(本紙主幹・奥田喜久男)

2016.2.24/東京・豊島区の日本ブレーン本社にて
 

「苦労しないからフクロウ(不苦労)、ここはフクロウのメッカ、いけフクロウ(池袋)」、
ギャグが飛び出す。襟にもかわいいフクロウのバッジ
 

「自社商品をあてて上場を果たしたら、ポケットに10億か20億入れて引退ですね」
と笑いながら将来を語ってくれた
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第159回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

「月給100万円」の求人広告

奥田 28歳のときに上京し、お兄さんとけんか別れし、35歳のときに日本ブレーンを創業されます。このときはどんな状況だったのですか。

二上 当時はまだ千葉の田舎にいて、そこで創業したのですが、人集めはうまかったんですよ。年間70人採用したこともありますから。

奥田 つくったばかりの会社でですか。

二上 当時、大手SIerの仕事がたくさんあり、いい人がいたらどんどん送り込んでくれといわれていました。だから、まず人材を集める必要があったんです。

奥田 1985年頃の大手SIerは伸び盛りですものね。でも、どうやって採用したのですか。

二上 「月給100万円」と就職求人誌の募集要項に出したら、来るわ来るわ(笑)。

奥田 ということは、ペテン師?

二上 なんてことをおっしゃいますか! 私の顔を見て言わないで(笑)。例えば130万円の仕事をしている人に、30万円とか40万円しか払わないのはかわいそうでしょう。それだけ搾取している会社のほうがおかしいじゃないですか。だから、100万円払うべきだと。そのために私はこのとき、SEやプログラマをみんなフリーランスで採用したんです。私のやったことは普通のことだと思いますよ。

奥田 130万円というのは、1人月ということですね。1人月130万円で仕事を請けて、本人に払っているのは30万円か40万円。でも、二上さんは100万円出すと。

二上 そういうことです。

奥田 ペテン師じゃなくて、救世主ですね。

二上 救世主だもん(笑)。だから、優秀な人がたくさん来るんです。でも当初は、就職求人誌から「月給100万円」は掲載できないと断られました。高すぎて載せられないと。

奥田 フリーランス扱いとはいえ、すごい給料の払い方ですね。

二上 入社1年目は7割。つまり、会社に入って100万円の仕事をしたら給料は70万円、そして勤続1年で80万円、もう1年経ったら90万円というシステムでした。

奥田 勤続年数で、支給率が上がっていくわけですか。うまいことを考えますね。

二上 7割還元、8割還元、9割還元と上がっていきます。だから、1990年前後には、みんな月給100万円くらいもらっていましたね。

奥田 いまでもすごいけど、当時の月給100万円というのはすごいですね。
 

意外なことが、不況からの立ち直りのきっかけに

奥田 そうした時代を経て、世の中ではバブルが破裂するわけですが、日本ブレーンの経営にはどんな影響がありましたか。

二上 大不況が来て、他の業界がおかしくなって1、2年してから、IT業界では影響が出てくるんです。

奥田 どうしてですか。

二上 契約が1年くらい残っているし、走っているシステム開発は止められないから。

奥田 受注残みたいなものがあると。

二上 ですから、うちの会社が本当にきつくなったのは92年ですね。例えば、契約期間が残っている者も含め、ある大手SIerに派遣していた40人近くのほとんどが戻されたんです。

奥田 そのとき、従業員は何人くらいいたのですか。

二上 内部にいる者を含めて全部で130人くらいですね。バブルがはじけて、残ったのは35人。もう死ぬ思いですよ。どうやって給料払うのかと。

奥田 私も創業経営者ですから、その気持ちはよくわかります。

二上 あのときは社員がどんどん辞めていくし、派遣先のユーザーから電話がかかってくれば、「何々君は帰ってもらえますか」という内容。会社のなかはシーンとしてしまって、ひどかったですね。5億円以上あった売り上げが2億円を割りましたから、まさに大惨事です。

奥田 でも、3年後の95年にはサンシャイン60に移転され、96年にはJIETを立ち上げます。

二上 そう、95年の一番ひどいときに、ここに入ったんです。資金繰りがきつくて、お金がないときでした。

奥田 まだ、不況の痛手から立ち直っていなかったわけですね。それでなぜ高層ビルに?

二上 昔から、グレードの高い高層ビルに入りたいとは思っていたんです。その前は、文京区本郷の雑居ビルでした。そのときの家賃が坪1万円くらいで、ここは坪4万8000円と言われて“えっ”と思いましたが、3万円くらいまで下げてくれました。家賃を払えるかどうかは別にして、入れてくれるというからとりあえず入ったのですが、そうしたら意外なことが起こったんです。

奥田 それはどんな?

二上 まず、大手の電子機器販売会社から直接電話が入りました。こんな厳しい時期にサンシャインに引っ越したのなら、いい会社に違いないだろうと信用されて、5、6人技術者を派遣してくれと。

 銀行の態度も同じです。それまで、1000万円ほどの融資も渋られていたのに、ここに入った途端、3000万円ほど借りませんかと。それも相手は都銀です。

奥田 それは意図したことですか。

二上 いいえ。入りたくて入っただけです。そうしたら、結果として営業も資金繰りもよくなった。大企業が経費削減で軒並み出て行ってしまったから入れたわけですが、とりあえず空いたと思ったら、美人と同じで会いに行くのが一番いいんじゃないですか。振られてもなんでもいいから、とりあえず会いに行くと。

奥田 なるほど。思ったら素直に動けと。どうして、そんなに自分に正直になれるんですか。

二上 バカだから(笑)。頭のいいある経営者に「サンシャインに入るから一緒に行きませんか」と言ったら「おまえはバカかと。厳しい時期には、いいビルから悪いビルに下りていくのが普通だ」と。でも、その人の会社は結局潰れました。

奥田 次の目標は上場ですね。

二上 そのためには、自社開発した商品で事業の柱を建てないと。そうしたら、ポケットに10億か20億入れて引退ですね(大爆笑)。

こぼれ話

 とにかく目立つ人である。声が大きい。話す時は身振り手振りもつく。しゃべり始めると次第に語気が強くなって、怒鳴るような方言、訛り入りのべらんめい調になる。ここまでくると手の施しようがないので、じっと嵐が通り過ぎるのを待つほかない。さらに服装が意表を突き、ヘビメタの様なジャラジャラモノが首から下がっている。初対面だと大半の方が引きますよね。話は脇道にそれるが、この様相で思い出す人がいる。

 朝日新聞社刊行の『ASAHIパソコン』(休刊)編集長から『アサヒカメラ』の編集長に就任し、6年前に52才で旅立った奥田明久さんだ。私とラストネームが同じこともあってたまに飲み歩いた。このお二人はジャラジャラも似ているが目の奥で燃えている炎がそっくりだ。目をつぶって、じっと骨子だけに耳をすますと、“そうなんだよね”っとうなづく様なメッセージが伝わってくる。

 日本情報技術取引所(JIET)は、二上さんが思いつき、同業の経営者に理解を求めて始まった。ピーク時に1318社が加盟した。ソフトの開発は建築業界と同じ様な階層型でできている。JIETの加盟企業は4次もしくは5次に相当する。円滑に動く案件もあれば、トラブルが起こる案件もある。大半は人間系である。この人臭さが二上さんそのものともいえる。18年間にわたって理事長を務め、「キッパリと後をたった」と言い切った。自分に言い聞かせる様にである。

Profile

二上 秀昭

(ふたがみ ひであき)  1950年12月生まれ。富山県出身。68年、富山県立新湊高等学校卒業。同年、鉄鋼関連会社に入社。85年、ソフト開発会社の日本ブレーンを設立し、現在は代表取締役会長。96 年、NPO法人日本情報技術取引所(JIET)の前身にあたる日本情報技術提携振興会を設立し、理事長に就任。現在は名誉顧問を務める。