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組織に求められるのは 助け合い、知恵を出し合える チームづくりだ――第198回(上)

千人回峰(対談連載)

2017/12/11 00:00

濱場正明

濱場正明

富士通エフサス  代表取締役社長 富士通アメリカンフットボール部 富士通フロンティアーズ顧問

構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一

週刊BCN 2017年12月4日付 vol.1705掲載

 濱場さんが部長を務められていたアメリカンフットボール部だけでなく、陸上競技部や女子バスケットボール部など、富士通の運動部の実力はトップクラスだ。こうした企業スポーツが経営に与える影響についてお聞きすると、会社全体の雰囲気を盛り上げて一体感をもたらす点が大きいと答えてくれた。企業規模が大きくなるほど社員間の人間関係が希薄になるのは自然の流れだが、多くの社員が一緒に応援できる場があることは、その流れを食い止めるとともに、企業にとって無形の財産となるのだろう。(本紙主幹・奥田喜久男)


2017.9.29/川崎市中原区の富士通エフサス本社にて

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第198回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

34年間、
金融担当一筋に歩んできた

奥田 今春まで富士通フロンティアーズの部長を務められましたが、学生時代からアメリカンフットボールをやられていたのですか。

濱場 学生時代はサッカーです。出身校の神戸大学には、当時アメフト部はまだありませんでした。富士通に入社したときも、最初は本社サッカー部に入りました。Jリーグ川崎フロンターレの前身は、富士通川崎工場のサッカー部で、社会人リーグを経てプロ化したのですが、それ以外にもサークルのようなサッカー部があったんです。

奥田 社会人になってもスポーツは続けられていたのですね。

濱場 ところが、忙しくてなかなか休みの日に練習に行けないんです。そのためサッカー部はやめてしまい、その後続けたスポーツはゴルフくらいですね。

奥田 入社された当時の富士通はどんな雰囲気でしたか。

濱場 私はオイルショック後の1976年に入社しましたが、富士通はその2年前からMシリーズという汎用機を出して、だいぶ元気になりつつある状況にありました。あの頃、富士通は「不夜城」と呼ばれ、当時業界トップのIBMに負けじとハチャメチャな働き方をしている人がいっぱいいました。いまの“働き方改革”のご時勢では確実に怒られるような人たちですね。実は私もそうでした(笑)。

奥田 当時はコンピュータ産業そのものが、そういう状況でしたからね。

濱場 業界自体まだ黎明期で、富士通自身も伸び盛りでしたが、私自身あまり大企業に入社したという意識はありませんでした。

奥田 入社して以来、どんなセクションを経験してこられたのですか。

濱場 入社して2010年まで、ずっと営業として金融担当一筋でした。

奥田 それは長いですね。

濱場 34年間で、富士通の中でも最長不倒記録ではないでしょうか。08年に常務になったのですが、そこでも最初の2年間は金融担当です。04年頃から営業とSEの一体組織になったので、富士通ミッションクリティカルシステムズの社長になるまでの11年間は、金融や社会基盤のSE部門も統括していました。

奥田 金融といっても範囲は広いですね。

濱場 生保、損保、証券、都銀、クレジット・リースなど、ひと通りやりました。東京証券取引所(東証)様も担当しました。

奥田 東証を担当されたのはいつ頃でしょう。

濱場 02年から10年までです。システムダウンの大トラブルが発生したときも、本部長として担当していました。

東証のシステムトラブルに直面し、
チーム力で解決にあたる

奥田 あれは大変なトラブルでしたね。

濱場 忘れもしない05年11月1日のことでした。その日の朝6時くらいに、株式売買システムが立ち上がらないという連絡が入りました。

奥田 そのとき、どこにおられたのですか。

濱場 まだ自宅にいました。当初はなんとか立ち上がるだろうと思っていたんです。でも、現場に行って、お客様と一緒に調査をして、原因がわかったのが11時頃。修正作業を行い、ようやく13時にシステムが復旧しました。前場が止まって、後場はなんとか動いたという形です。

奥田 東証が半日止まるということは、以前にもあったのでしょうか。

濱場 注文が殺到するなどで負荷が集中した特定銘柄が止まるということはありましたが、全銘柄が止まったのは初めてです。

奥田 当時の新聞などは、真っ暗になった株価ボードの写真を掲載し、システムベンダーであった富士通も相当叩かれていたことを覚えています。それで、事後の対応はどのように。

濱場 その後の半年間は、死ぬ思いでした。まず原因を究明し、お客様と一緒にこういうトラブルが二度と起こらない体制をつくらなければなりません。私自身は営業活動を中断し、営業もSEもみんな集めて、半年ほど、プロジェクトルームに閉じこもり、リーダーとして、その検討と作業を行いました。

 ところがその最中、別のシステムトラブルが続きました。背景としては、03年4月に株価が大底となり、その後04年、05年と株式市場が活況を呈し、取引量の増加に対応するため、短期間でシステムの増強を繰り返していたということがあります。これらの対応に追われ、翌年春までドタバタしていました。

奥田 そういう突然の事故に遭遇すると、その人となりとか、会社の姿勢が出てきますよね。

濱場 出ますね、逃げちゃう人とか(笑)。幸い、富士通にはそういう人はいませんでした。みんなベストを尽くして、最後までよく頑張ってくれたと思います。

奥田 こうしたトラブルのときは、やはり対応がふだんと異なってくるものですか。

濱場 対応が変わるということはありませんが、集中力は増します。その代わり、疲れ果てますね。

奥田 半年間、集中し続けられたわけですね。

濱場 この問題が決着した後、06年の春に東証様はシステムを全部つくり替えるという決断をされます。そこで、私たちの新たなチャレンジが始まったのです。

奥田 新システムの受注に挑まれた。

濱場 この案件は国際調達となり、20社ほどが競合しました。欧米のベンダーも国内ベンダーも提案に参加してきました。

奥田 どんな提案をされたのですか。

濱場 まず採用していただくためには、今までにない仕組みをつくらなければなりません。そこで私たちは、これまでは株式売買システムに注文を出すと1秒くらいで約定して返ってくるという秒単位のスピードだったのですが、それを100分の1秒単位(10ミリセカンド)にすることを目指しました。また、お客様から求められたのは99.999%ダウンすることのない、実質的にはノーダウンのシステムです。

 その実現のためには既存のものを組み合わせるだけでは不可能なため、新規にソフトウェアやハードウェアを開発する必要がありました。当時の富士通においても大変難度の高いことでしたが、私たちは背水の陣で臨むことにしたのです。(つづく)
 

富士通フロンティアーズ
初優勝時の
チャンピオンリング


 濱場さんが部長を務めたフロンティアーズは、2014年シーズン、社会人Xリーグの決勝でIBMを破り、ライスボウルでは学生王者の関西学院大学に勝利して初の日本一に。ずっしりと重く大きなリングは、まさに勝利のシンボルだ。

Profile

濱場正明

(はまば まさあき)
 1954年2月、兵庫県神戸市生まれ。76年3月、神戸大学経営学部経営学科卒業。同年4月、富士通入社。金融営業本部、保険証券ソリューション事業本部長などを経て、2006年6月、経営執行役に就任。08年6月、経営執行役常務。15年4月、富士通ミッションクリティカルシステムズ代表取締役社長。17年4月、富士通エフサス代表取締役社長に就任。