目指すのはワクワク感のある会社 必ずしもコンピューターにこだわらない――第226回(上)

千人回峰(対談連載)

2019/01/24 00:00

中村憲司

中村憲司

大和コンピューター 代表取締役社長

構成・文/小林茂樹
撮影/松嶋優子

週刊BCN 2019年1月21日付 vol.1760掲載

 今回の対談では、大和コンピューターの東京オフィスにお邪魔した。通された会議室は総檜張りで、天井を見上げるとマイナスイオンの発生装置が張り巡らされ、床下には備長炭と、およそIT企業という感じがしない。その理由は本文に譲るが、そこには、少々スピリチュアルで、人の生命に深い思いを馳せた先代創業社長のマインドが宿っている。そして、中村社長との話が進むにつれ、そのマインドが、現在そして未来の経営に反映されていることに気づいたのだった。(本紙主幹・奥田喜久男)

2018.11.9/東京都港区の大和コンピューター東京本社にて

プロパン業界の視察を契機にソフトウェア開発へ参入

奥田 まず、大和コンピューターのスタート時のお話を聞かせていただけますか。

中村 創業者である父、中村曻は、かつての電電公社で無線系の仕事をしていました。脱サラして独立したのですが、いまの会社をつくる前にもいろいろな仕事をしていました。

奥田 コンピューター以外の仕事を?

中村 はい。26歳のときに電電公社を辞めて、丸善電気という家電販売店を創業します。そして、祖父が創業し伯父が継いでいるプロパンガス会社の役員となるかたわら、プロパンガスの需要拡大のため、近畿圏で建売住宅の事業も始めました。

奥田 なるほど、家が建てばガスが必要になる、と。ずいぶん、お父さんは商才があったのですね。ところで、それがソフトウェアにどうつながるのですか。

中村 昭和40年代後半、父はプロパンガス業界の視察旅行で欧米に行ったのですが、このとき、米国ではプロパンガスの検針や集計にコンピューターを使っていることを知りました。そこで、プロパンガス業務のコンピューター化とソフトウェア開発を目的にして、1977年に大和コンピューターを設立しております。

奥田 77年にスタートしたときは、どんな分野のソフト開発だったのですか。

中村 その当時からビジネスソフトです。大阪・高槻市のいまの本社で、日本電気や沖電気工業のオフコン用ソフトから始めました。

奥田 突然、ソフト開発の事業ができるものなんですか。

中村 そのとき、たまたま、当社の専務の林(正氏)が、どんなことをやりたいかと聞かれてコンピューターをやりたいと。それならこっちにきてソフト開発をやれという話になり、そこから人材を集めて、事業化したのです。

奥田 あの林さん。お父さんとはどんな関係?

中村 もともと林は、祖父の会社に就職していましてね。

奥田 プロパンガスの会社?

中村 そうです。いったんは入社したものの、そんな経緯で転籍した形になりますね。

奥田 お祖父さんの会社からお父さんの会社に移籍したと。

中村 父は兵庫県の豊岡高校出身ですが、林が豊岡実業高校(現豊岡総合高校)出身で郷里も同じだし、大阪に出てきたので、それで面倒をみるかと。

奥田 じゃあ、お父さんとしては子どもみたいなものじゃありませんか。

中村 そうですね。年齢も私より一つか二つ上なだけですから、母親が生きていた頃は、「おまえと林くんは、どうもかぶって見える」と言っていましたね(笑)。

いまも事業に生き続ける「シンプル・イズ・ベスト」精神

奥田 ところで、この檜張りの部屋を作った経緯を聞かせていただきますか。

中村 昨年からBCP(事業継続計画)の絡みで東京・大阪の二本社制にしたのですが、檜の部屋はここ東京本社だけでなく、大阪の本社内にもワンフロアあります。

 いま、靴を脱いで上がっていただきましたが、こういうフロアを作った理由は、われわれソフト業界の人間は、首から上をフル回転させる仕事をしているからなんです。

奥田 頭を使う仕事だから、リラックスできるようにということですか。

中村 そういうことです。かつて、マイクロソフトのビル・ゲイツは、ポロシャツでさっそうと人前に出てきましたが、当社はビジネスソフトを扱い、金融機関から融資を受けている中小企業ですから、ポロシャツやTシャツではちょっと具合が悪い。例えば、融資の件で来られた銀行の支店長がそうした姿を見て、不安になられると困るわけです(笑)。だからネクタイは外せないのですが、首から下はリラックスできる環境を作ればいいんじゃないかと。靴を脱いでゆったりできる職場にしようというのが、この部屋のコンセプトでした。

奥田 それはいつ頃の話ですか。

中村 創業して10年経たない頃だと思います。77年の創業ですので、バブルの前後ですね。

奥田 そうお父さんが考えられたと。

中村 創業者であるうちの父は「物事はシンプルに考えろ。自然はシンプルで理にかなっている。摂理・道理にかなわんことはやったらいかん。おかしくなる。シンプル・イズ・ベストだ」といつも言っていました。「シンプル」にどう考えるのかと尋ねると、人間の命が一番大事で、その順番で考えればいいと。命を維持するためにまず大事なものは何かと。

奥田 空気!

中村 おっしゃる通りです。空気、次に水、食べ物、そして衣服だとか住居がなければダメだと。空気は目に見えませんが、普通の人は、これを10分止めたら死んでしまいます。だから一番大事ですね。じゃあどうするかということで、空気の浄化を考えようと。空気中にプラスのイオンが多いとストレスがたまる。マイナスイオンは、森林浴で取り込めるという話は分かってきた。ならば、この檜の部屋の中にマイナスイオンの発生装置を設置しようということです。

 この空気の前に改善しようとしたのは、水でした。本社のある大阪・高槻の水道水の水源は琵琶湖なのですが、滋賀、京都を経由して大阪にやってくるので決しておいしい水とはいえません。そこで、水道水をプロ用の浄水器を通した後に、電圧をかけました。どこまで効いているのか分かりませんが、水のクラスターを小さくすると身体にいいといわれたことがあって、それでお客様や社員の飲む水の質をちょっと良くしようと。昔はミネラルウォーターなんて売っていませんでしたから、そういう機器を各フロアに置いていたんです。

奥田 いまでも使っているのですか。

中村 使っていますが、ミネラルウォーターのほうがラクなので、通常はそちらですね。その当時はアトピーが治ったといった話もあり、いいといわれるものならどんどん取り入れよう、という発想でやってみたようです。

奥田 なるほど、先代は職場環境についてもいろいろ工夫されたのですね。

中村 フローリングにするとき、床上げをしました。それで裸足でもスリッパを履いてもいいことにしたのですが、それと同時に床下にLAN回線を通し、アップコンセントで電源をとり、LANの端子を上げられるようにしました。まだ、無線LANがなかった時代でしたから。それと床下には、LANケーブルだけではなく備長炭を敷いています。

奥田 備長炭はどこに敷いてあるのですか。

中村 全面です。

奥田 それはすごい!
(つづく)

兵庫県立豊岡高校の「和魂」の碑

 父親の母校である旧制豊岡中学(現豊岡高校)の建学の精神は「和魂の精神」。これが「大和コンピューター」という社名の由来となったそうだ。大きな和の魂にしたいから「大和」、その後に「魂」と「コン(ピューター)」の音が合わさった。
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第226回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

中村憲司

(なかむら けんじ)
 1958年12月、大阪市天王寺区生まれ。81年3月、慶應義塾大学経済学部卒業。84年3月、同大大学院経営管理研究科修士課程修了。同年4月、日本アイ・ビー・エム入社。87年1月、大和コンピューター入社。2002年5月、代表取締役社長に就任。