木村さんとお会いするのは、今回の対談で二度目である。にもかかわらず、もう何度も時間を共にしてきた感覚がある。コンピューターという同じ業界にいたということもあるが、もう少し心の在り方の深いところで、うなずける何かがあるからかもしれない。強い風が吹いた時、「柳に風」という表現があるように、やんわりとかわしてやり過ごす木もあれば、まっすぐに立ってまともに風を受ける木もある。多種多様。いろいろな木が存在する。(本紙主幹・奥田喜久男)

2018.11.8 /BCN 22世紀アカデミールームにて

コンテンツの企画から営業までキャプテンシステムに関わる

奥田 木村さんを紹介していただいたのは、この欄にも登場された元NHKディレクターの加藤和郎さんです。どこで知り合われたのですか。

木村 私が独立したのが2001年ですから、その少し前です。キャプテンシステムに関わっていたことがご縁で知り合いました。

奥田 キャプテンシステムとは懐かしい(笑)。主導は電電公社でしたっけ。

木村 そうです。当時の日本電信電話公社、現在のNTTです。キャプテンシステム自体は、1984年にサービスインして02年まで続きましたから、加藤さんと知り合ったのはサービスの後半にあたりますね。

奥田 木村さんはキャプテンシステムの何をされていたのですか。

木村 当時所属していた会社が、今でいうところのコンテンツ制作を受注していました。コンテンツを制作して番組を構成し、番組表を作って目次や見出しにリンクを張るというのが主な業務となります。ただ、官僚的な仕事の仕方ではなかなかうまくいかなくて、途中で民間の会社が前面に出ることになりまして。

奥田 ありがちですね。

木村 コンテンツごとに保険はこの会社、ニュースはあそこの会社と、いろいろなところにお願いすることになって、協議会のようなものが始まりました。それでコンテンツを作りながらその運営をしておりました。

奥田 仕事が増えて大変だったでしょうが、それはそれでおもしろそうです。

木村 おもしろかったです。何となく時間がゆったりと流れていて。

奥田 時間がゆったりとは、どういう意味ですか。

木村 まず納期がありません。自分たちが主導する側にいますから、こちらの都合でものごとが進められる。いつまでにリリースしなければいけないということはなく、すべてが「だいたい、この頃になります」といったように、ゆるやかでした。

奥田 困ったことはなかったんですか。

木村 ありました。キャプテンシステムを取り入れてもらうよう、いろいろな地方に営業に行きましたけど、その場では盛り上がるものの、後から「そうは言ってもね」とひっくり返されることが多くて、結構難儀しました。

奥田 総論賛成各論反対的なことでしょうか。これまたありがちですねえ。加藤さんはそうしたなかのどこで登場されたんですか。ディレクターとして?

木村 いえ。もうディレクターは卒業されて、NHKの関連会社にいらっしゃいました。先にお話したように、民間の会社が前面に出るのはいいけれども、各社のカラーが出過ぎないようにとなった時、NHKなら問題ないだろうということで陣頭に立っていただくことになりました。

奥田 なるほど。本当に社会の縮図が見えますね。ところで、うかがっていると木村さんはコンテンツの企画から協議会の運営、地方での営業までもこなされている。

木村 営業は以前にもやっておりましたので。

奥田 それはいつ頃ですか。

木村 キャプテンシステムに関わる前です。電子部品を扱う会社にいて、宇都宮に営業所があったんですが、そこから東北6県を担当していました。

奥田 東北6県。客先は何件くらい?

木村 全部合わせると100件弱だったかと。営業担当者はほかにもいましたが、東北6県を担当していたのは私だけでした。毎日いろいろな客先に出向きましたが、ほぼ日帰りなんです。自分の会社に「パーツは置けないので毎日持ってきて」、というお客さんもいらして。

奥田 それは厳しいなあ。

過酷な労働環境のもとでついに病を発症

奥田 キャプテンシステムの後は、どうされたんですか。

木村 あるソフト会社に入って営業職につきました。受託、請負、派遣といった案件を受注してくるのが仕事でした。

奥田 営業は得意なほうですか。

木村 得意かどうかは分かりませんが、役回りとしてやっていましたね。その後、01年4月に独立しました。

奥田 法人をつくられた。社名は?

木村 「アイティ企画」です。

奥田 もうITという言葉は世の中で一般的になっていたのでしょうか。

木村 一般的になりつつあるところでした。当時の首相が「アイティ」と言うべきところを「イット」と言ったりして、メディアに取り上げられたりしていましたね。

奥田 01年は、僕にとっても大きなターニングポイントの年なんです。視察で訪れたニューヨークでNY911に遭遇して……。あの経験は忘れることができません。NY911の前と後では人生観ががらりと変わりましたから。木村さんはNY911の時、どうしておられましたか。

木村 加藤さんとメールのやり取りをしていました。第一報が入ってきた後、午後11時から翌日の午前3時くらいまでずっと。

奥田 加藤さんはディレクターの現職時代、浅間山荘を実写されていますからNY911のような現場には一方ならぬ思いがあるのでしょうね。ところで、お体の調子はいかがですか。

木村 おかげさまで今は大丈夫です。

奥田 精神的な病とわかったのはいつ頃ですか。

木村 06年5月に鬱病と診断されました。当時、メガバンクのプロジェクトに組み込まれたんですが、非常にタイトなスケジュールと過酷な労働環境に置かれました。月曜日の始発で客先に出向き、そこでずっと作業をして、日曜日の終電で家に帰るといったような。

奥田 客先で休めなかったんですか。

木村 作業している場所に部屋としての区切りがなくて、いつもお客様から見えている状況だったんです。なので、横になることもできなくて。

奥田 う~ん。それにしても客先に居続けなければいけない理由は何だったんでしょう。

木村 私がプロジェクトに入った時に、すでに大幅な遅れが生じていたらしく、とにかく時間がもったいないということと、お客様から何か指示があった時にすぐ対応しなければならないということだったと思います。

奥田 仕事の内容は?

木村 ソフト開発とインフラの整備、それらの進捗管理です。

奥田 木村さんは独立されていたんですよね。どうしてその仕事を始められたのですか。

木村 知り合いの会社からの紹介でした。金融系のプロジェクトであれば、細く長くつながるのかなと思って受けました。

奥田 仕事の内容は木村さんがお持ちのスキルと合致していますね。働いていた期間はどのくらいでしたか。

木村 05年10月にお受けして、06年の末くらいまでですね。

奥田 その間に病気が進行したわけですよね。労災の認定は?

木村 いや、申請しませんでした。してもしょうがないなと思って…。

奥田 世の中にはあまり出ない話ですね。

木村 そうですね。出ないと思います。消え去る話です。(つづく)

初めてのボーナスで買った時計

 木村さんが21歳の時、初めてのボーナスで購入した1965年製のグランドセイコー。初めて入った骨董屋で出会って、一目惚れしたという。自分より4歳上に生まれた時計は、いつも静かに木村さんに寄り添っている。
 
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第229回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
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