成功の秘訣は、構想力とオーナー的決断――第50回

千人回峰(対談連載)

2011/03/10 11:27

沓澤 虔太郎

沓澤 虔太郎

アルパイン 相談役

構成・文/谷口一

リーマン・ショックで体力がついた

 奥田 ここで改めてうかがいますが、リスクを負うということは具体的には、どういうことなんでしょう。

 沓澤 端的にいえば、人もモノも金もない状況で、借金を背負い込んで自分の思うことをやり抜いていくとかですね。マンパワーの面でも、会社の規模が小さいときにはなかなかいい人材が集まらない。成長していく過程で、それなりの人材が採れるようになってきます。企業の規模、つまり器に合う人材しかこない。最初のうちは、それを我慢して使わなくてはならんわけです。

 奥田 我慢して使うというのは、よくわかりますね。

 沓澤 人は徐々に育っていくんです。そうこうしながら10年が経って、企業の成長とともに一緒に成長してくれるのは3割くらいです。4割はまあまあで、残りの3割は使いものにならない。

 奥田 なるほど、3:4:3の法則ですね。

 沓澤 私もアルパインを創業した頃は、人材スカウトに走り回りましたよ。松下電器やソニーなど、いろんなところを回りました。そういうなかで、いい人材もそうでないのもいるわけです。人材獲得もリスクですね。失敗もたくさん経験しました。

 奥田 やはり、そうですか。

 沓澤 当然、事業そのものにもリスクがありますね。最初は、モノを売ろうというんじゃなくて、アルパインを高級ブランドに仕立てようと考えました。一般大衆向けではなくて、ニッチでもいいから、高級ブランドに育てようと、それでスタートしたわけです。これだって大きなリスクですよ。売れる保証は何もないわけですから。新しくやるということは、人・モノ・金、あらゆるものがリスクなんです。

 奥田 リスクを恐れずに、むしろリスクを力にするということですね。

 沓澤 私は、2008年秋にリーマン・ショックが起きたことも、結果的によかったと思っています。

 奥田 どういうことでしょうか。

 沓澤 人間は追い詰められると必死になるということです。アルパインも減収となりましたが、増益にこぎ着けました。この2、3年、役員、部長、課長、担当者、すべてがずいぶん成長しました。これだけ大きな変革の時代に、その波を乗りこなせるようになりましたからね。

 1973年に起きた第一次石油ショックの時もずいぶん体力がつきましたが、今度のリーマン・ショックでは日本の企業も相当体力がついたと思います。この体力があれば、この先もなんとかなるだろうとみています。

 奥田 これからの日本は安心だと。

 沓澤 ただ、日本も成熟型先進国になったから、あんまり欲を出したらいかんと思うんです。経済発展の流れは、イギリスからアメリカ、アメリカから日本とドイツにきて、今は中国の番です。その次はインドの番でしょう。そしてブラジルですか。日本もone of themなのです。普通の国になるわけです。欲を出してはいかんです。

 奥田 普通の国というのは、どう理解したらいいのでしょうか。

 沓澤 いってみれば、並の中流国ですよ。日本は成熟したんですね。イギリスとまったく同じです。イギリスは製造業を全部海外に売って、金融国家になって、それがダメになって今は非常に苦しいですね。そういう時代の流れや世界の状況を前提に、これからどう日本は生きていくかを考えなくてはいけない。私くらいの年になりますと、世界史というのか、全体の流れに興味がありますね。時代の流れということを考えます。

 奥田 世界のなかでの時代の流れということですね。

 沓澤 過去20年から30年、世界はアメリカとヨーロッパと日本の三極体制だったわけです。今は、アメリカとヨーロッパと中国ですね。日本ははじき出されたんです。これは時代の流れですから仕方ないと思います。その辺りをみんなが認識しないといけない。

劉教授との出会い

 奥田 沓澤さんがお書きになった『日中合作』には、中国と中国人、中国でのビジネスに関して、数多くの示唆に富む話が書かれていますが、核心部分の劉教授との出会いのことやお人柄なども聞かせていただけますか。

 沓澤 私は戦争中の昭和20年3月に中国に渡りました。1年半滞在しましたが、革命と戦いの明け暮れでしたね。ただ、そこで同胞と生死を共にしたわけですから、短い期間だったけれど、その地への思いは深かった。ですから、今から20年前に中国に工場をつくることになって、どこにするか調べることになったんですね。その時に、やっぱり1年半過ごした旧満州には土地勘がありましたし、まず、そこから訪ねたわけです。大連、それから、私の一種の故郷である丹東に行きました。

 奥田 それが劉教授に繋がっていくんですね。

 沓澤 本当にたまたまでした。中国の電子産業を知ろうとして省政府を訪れたら、東北大学に行ったらどうかとアドバイスを受けました。で、それほど期待もせずに行ってみたら、応対に出てきたのが劉さんとその上の李華天教授だった。李さんはハーバード大学を卒業して、中国で初めて電算機を使った人で、素晴らしい方でした。李教授と劉さんの間柄はまさに師弟愛で、見るからに劉さんを育てようとしているんですね。素晴らしかったですね。それが第一印象でした。

 奥田 そこから合作へと話が進むのでしょうか。

 沓澤 いやいや、それですぐに、じゃあ提携しようということではなかったです。当時、私も4ビット8ビットのマイコンのツールが必要だったので、その話もあって、劉さんに一度日本に来なさいよと勧めたんです。もちろん提携の話はまだ影も形もない頃です。日本に劉さんを呼んで、われわれの状況をいろいろと話し、4ビット8ビットのツールを作ろうとなったんです。すると彼は翌年、かなり大型のツールの提案をもってきたんです。

 奥田 すごいですね。

 沓澤 ええ、すごいんですよ。日本人が考えもつかないような提案でした。でも、お金がないからどうしようもないというんですね。よし!それじゃあ2000万円前払いするからやってみないかとなったんです。

 奥田 それもすごい話ですね。

 沓澤 そのお金で、彼はパソコン買ったり教室を直したりしたんですね。そして、従業員を集めて事業を始めたんです。

 奥田 2000万円の前払いですか。アルパインの創業者だからできたのでしょうね。

 沓澤 ワンマンでしたからね。

 奥田 当時の2000万円というと、どのくらいの価値なのですか。

 沓澤 向こうは物価が安いから、価値は日本の10倍。当時の2億円に当たります。それが起爆剤になったんですね。だから、彼との信頼関係というのは最初の出会いじゃなくて、1~2年の間の行き来のなかで培われたものなのです。この人は本当に誠実だな、教育者だなと、信頼がますます深まったんです。

 それに李教授と東北大学の総長が、大学を挙げて全面的にバックアップしてくれました。日本の大学なら、産学共同といっても、教授のところへ行ってくれで終わってしまいます。うまくいかないですよ。ところが東北大学では行くたびに、総長自ら幹部を集めて宴会までしてくれるんです。

 奥田 借金してでも宴会を開いてくれると、『日中合作』に書いてありましたね。

 沓澤 これは劉さんの人柄でもあります。それから5年ほど経って、北京政府から上場しないかとの要請があり、それで上場したわけです。彼の理念は「若い人たちに、高い給料と、すぐれた環境を与える」ということです。そして彼の人材に関しての基準は、まず誠実であること、情熱家であること、そして哲学をもっていることですね。哲学というのは何かというと、自らの職業観がしっかりしていること、人生観をもっているということです。

 奥田 劉さんそのままの人物像ですね。

 沓澤 そうですな。それに彼は学ぶことに非常に貪欲です。今年、彼は欧米のナビゲーションNo.1企業の社外重役にもなりました。なんで社外重役になったんだと聞くと、欧米の経営を勉強したいと言ってましたね。学ぶことが好きなんです。

 奥田 教えられますね。

 沓澤 劉さんが素晴らしい人材だったということですね。

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