オフコンとパソコンの境目から“今”を俯瞰する――第34回

千人回峰(対談連載)

2009/02/16 00:00

久田仁

久田仁

内田洋行 相談役

 久田 1989年ですからバブル経済の真っ只中ですね。社長を務めていた兄(久田孝氏)が60歳で急逝し、弟の私が社長に就任したわけですが、何か新しいことに取り組もうと思っていたら3年ほどで世の中がガタガタしてきました。バブル崩壊です。

 当時、事務機・コンピュータ・教育の3事業部に分けられていたのですが、それぞれ別の会社のようになっていました。社長になってそれを融合させようと努力していたのですが、しばらくすると、私の出身部門であるコンピュータの事業部が大幅な赤字を出してしまいました。あえて、出身部門には口を出さないようにしていたのが災いした形です。

 富士通との提携は8割から9割は成功だったと思いますが、パソコンについてだけは失敗でした。NECがPC98シリーズでうまくパソコン事業を軌道に乗せたのに対して、当初富士通はパソコン参入をためらい、OSをWindowsに切り替えるのも遅れたからです。

「これは会社じゃないな」

 奥田 久田さんはアメリカの大学に進まれ、その後、結果的には内田洋行に2回入社されるという、ちょっと変わった経歴をお持ちですね。

 久田 大阪の高校を出て、アイオワ州にあるドレーク大学というところを選んだのですが、入学前にいくつかの大学に受け入れ可能かどうか問い合わせました。このとき「日本人は何人もいるから、あなたも来なさい」と回答してくる大学があるなかで、この大学は「日本人はいないがウェルカムだ」と言ってくれました。私としては、日本人は誰もいないにもかかわらずウェルカムだと言ってくれたほうに魅力を感じたのです。

 奥田 なるほど、それで卒業後は一度内田洋行に入社しながら、東京エレクトロンに転職されますが、これにはどんな理由があったのですか。

 久田 アメリカの大学に在学中、広告代理店でマーケットリサーチのアルバイトをしていました。10人くらいの小さな会社でしたが、責任者には個室があるんですね。自分もアルバイトとはいえ、一人前と認められてからは個室をあてがわれました。ところが、内田洋行に入ったら穴蔵のような部屋に押し込められ、電話やタイプライターも6人に2台くらいしかない(笑)。「これは会社じゃないな」と思って半年ほどで辞めて、仕事上のつき合いがあった東京エレクトロンに移ったのです。

 奥田 それで、東京エレクトロンではどんな仕事を?

 久田 最初は輸入部で半導体の受入検査をやっていたのですが、アメリカ留学して英語ができたことから、輸出部にトレードされました。輸出したのは8トラックのミュージックプレイヤーやカーラジオで、私もアメリカに渡って仕事をしていたのですが、1ドル360円の固定相場から変動相場になり、300円、270円と円高が進んだことから、事務所を閉めて帰ってくることになって…。日本に戻ったのは1972年のことですが、在米中はインテル創業者の一人、ロバート・ノイス氏や元東京大学(現サイバー大学)の石田晴久先生などと懇意にさせてもらいました。

 奥田 1972年に帰国されて、東京エレクトロンも間もなく辞められてしまいますね。

 久田 輸出部がなくなり、しばらくは輸出できるものを探していたのですが、どこにいっても円高で意気消沈しています。現在の状況に似ているんですね。私は「アメリカでは完成品をつくらなくなっているし、部品メーカーもない。これからは日本が伸びるはずだ」と説得したのですが、どうも状況は芳しくない。そこで、そこは3か月ほどであきらめ、内田洋行に戻ったというわけです。

 奥田 そこでオフコンとの出会いがあったと…。

 久田 そうです。帰ってきたらすぐに、おまえはコンピュータのことを知っているからそれを担当しろといわれて、企画部に配属になりました。最初の仕事は、富士通との提携です。経営者の同族だから秘密を外部に漏らすことはないだろうという判断で、事業部長の下でその実務に携わりました。その後も基本的にはずっとコンピュータ部門ですね。

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