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「豊かさ」「ゆとり」「やさしさ」を排し、「うれしい」を求める――第30回

千人回峰(対談連載)

2008/11/25 00:00

鳴戸道郎

富士通 顧問、トヨタIT開発センター 代表取締役会長 鳴戸道郎

 奥田 なるほど。それでは、どんな対応策をとればいいのでしょうか。

 鳴戸 今は何もしないことです。嵐の真っ只中にあるのですから、動けば大当たりか沈没かのどちらかでしょう。1か月間でこれだけ世の中が変わってしまったのですから、政治も、経済の安定と国民の安全を守ることだけに専念してほしいですね。

 第二次世界大戦に負けたとき私は10歳でしたが、神戸の三宮や元町のガード下で、冬場は毎日10人の子供が凍死するような悲惨な状況でした。失業率も、今と比べものにならないほど高かったのです。しかし、それでも「働けばよくなる」という希望がありました。今は物質的にははるかに豊かになっているのに、みんな、未来への希望ではなく不安を抱いている。これは精神的につらいところですね。

残業を残業と思わなかった幸福な時代

 奥田 夢というお話が出ましたが、鳴戸さんは富士通に入社し、最先端のコンピュータ業界でどんな夢を抱いていたのでしょうか。

 鳴戸 当時は池田敏雄さん(専務)が世界最速のコンピュータをつくるという夢を持っていましたし、富士通の半導体事業部がはじめてLSIをつくったということで、みんな希望に燃えていましたね。

 ですから、みんな仕事が楽しくて仕方がない。帰る時間がもったいなかったのです。残業を残業と思わず、土日もなし。私の場合は週に2日は会社で寝泊りしていました。部下にも月200時間以上の残業をさせて、その部下の奥さんから苦情の電話をもらったりしましたが、彼らも無理強いされているのではなく、好きで来ていたのです。私自身も、自分の時間といったら睡眠時間と通勤時間しかない。夕方になって腹が減り、昼食をとらなかったことにはじめて気づくといったこともよくありました。でも、幸せでしたね。

 奥田 そんな話をうかがっていると、80年代のマイクロソフトやアスキー、最近でいえばグーグルの社員の働き方を連想しますね。

 鳴戸 そう言われればそうかもしれません。私が入社した1962年頃は、まだ富士通全体がベンチャーのようなもので、組織になっていませんでしたから。最初は本社の企画部門に配属されたのですが、風邪をひいたら上司に怒られるような職場でした。「この忙しいのに、なんで風邪をひくんだ」と(笑)。会社として落ち着いてきたのは、1964年の東京オリンピックが終わってからですね。

 当時の富士通は、思い通りに好きな仕事をさせてくれる会社でしたが、給与は同業他社より低かったと思います。何でも内製するため従業員数が多く、1人当たりの売上高が低いのです。ただ、会社全体としては儲かっていまして、一時は経常利益率が40%を超えていたときもありましたね。

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