「運には恵まれました」と述懐する楢葉勇雄さん――第13回

千人回峰(対談連載)

2007/09/10 00:00

楢葉勇雄

大塚商会 元副社長 楢葉勇雄

 楢葉 じつは大津君(大塚商会の専務を務めた大津昇氏)に紹介されたんです。彼とは、大学時代の同期生で、クラブ活動も一緒でした。「うちの会社で人を募集している。こないか」という誘いを受けたんです。

 で、創業社長の大塚実さんに会うだけは会ってみようかと思って、1968年の秋に面接を受けました。

 面接のとき、大塚社長に最初に聞かされたのは、「私は大きい会社を作りたいとは思わない。ただ、社員と家族に報いる点では日本一の会社を作りたい」という言葉でした。社員と家族に報いるって、キリスト教の教えと相通じるところがあるな、とまず思いましたね。

 次に、「ところで、君、給料はいくらもらってる?」という質問が飛んできました。教文館では次長職で、7万2000円だったので、正直にその額を言うと、「楢葉君、11万円出すからうちに来てくれないか」と言われました。その額を聞いてびっくり。「給料は私の働きを見てから決めてくださっても結構です」と言いますと、「今は謙譲の美徳は流行らないよ。もっと、自分に自信を持ちなさい」と言われたのをよく覚えています。

 人の心をつかむのがうまい人だな…というのが第一印象で、この社長の下ならやっていけそうだと思い始めていました。

 家に帰って女房に言いました。「会社を変えることにした。どうなるか分からないけど、いざとなったらどんな仕事でもやって食わせるから心配するな」って。

 結局、大塚商会には1969年1月に入社、当時私は38歳でした。教文館には15年間勤めたことになります。

「自尊心を刺激せよ」で人使いに目覚める

 奥田 大塚さんがリコーの故市村清社長と和解、リコーの複写機を扱い始めたのが1968年でしたね。

 楢葉 大塚商会はリコーの電子リコピーを担いで急成長のステップを踏むことになる。大塚さんは「系列店戦争に勝つんだ」と社員に檄を飛ばしていました。当時の社員数は155人、売上高は8億6200万円、支店数は10店でした。

 私はそのうちの亀戸支店を預かることになりましたけれど、最初はとまどうことばかりで…。

 奥田 それまで、「汝の隣人を愛せよ」「人はパンのみにて生きるにあらず」という世界にいたのに、いきなり、「大塚商会の歩いた後はぺんぺん草も生えない」という世界に飛び込んだというわけですね。

 楢葉 ええ。宗教の世界では、物欲、金銭欲、名誉欲、地位などを否定し、精神的なものを大事にするわけですが、大塚商会の場合、歩け、歩け、攻めろ、攻めろの典型的な訪問販売会社。確かに、高賃金で、業績を上げればインセンティブもつくなど、できる人間には居心地のよい会社です。ただ、裏を返せばお金がすべて、お金以外に価値観はないのかという思いはありました。また、成果を出すためには、他人を蹴落としてでもという雰囲気も強く、最初のうちはこれにもとまどいました。

 一番つらいのは、人が辞めていくことでした。大学卒を定期的に採用するようになったのは1945年からだったと記憶していますが、1年後に残るのは3分の1ほど。同じ大塚商会という器、それも亀戸支店に配属されたのは何かの縁があるからだ、この縁は大事にしたいという考えで部下に接していましたから、辞表を出されると本当につらかった。

 それで、スローガンやら標語やらを張り出したり、成績の上がらない社員には叱る一方で、こうしたらいいんじゃないの、といった助言もしていきました。

 そんなある日、大塚実社長が突然、支店にやってきました。張り出してあるスローガンなどを見ながら、まあ座りなさいよと…。「楢葉君、君の言ってることは間違いじゃない。ただな、人間というのは理屈じゃ動かないんだ。一寸の虫にも五分の魂と言うが、魂とは自尊心なんだ。自尊心を刺激し、動かすことが、人の心をつかむコツだよ」と諭されたのです。

 目からうろこが落ちるというのは、ああいうことを言うんだと思います。その後、私も部下をマネジメントするに当たって相手の自尊心に訴えることをまず最初に考えるようになりました。

 じつは、営業日報を書く、読むというのも初めての経験でした。当時、都心部では1日50-60社、周辺部でも最低20社は回り、どこで、誰に会い、どんな商談をしたかを日報にまとめるわけです。部下からあがってくる日報に目を通す際、最初は“看板コール”も見抜けませんでした。

 奥田 看板コールというのは?

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