異端者がイノベーションを起こす――第12回【前編】

千人回峰(対談連載)

2007/08/06 00:00

水野博之

松下電器産業 元副社長 水野博之

 奥田 ああ、ちょうどその頃です、ニューヨーク・タイムズのアンドリュー・ボラック記者が私を訪ねてきたのは。彼は、日本の製品が集中豪雨のごとく米国を襲った事実を前提にして、コンピュータもいずれ日本が席巻するのではないかと意見を求めてきました。それ対して私は、「コンピュータは他の製品と異なり、ソフトの比重が大きいのでそうはならないだろう」と答えたことをよく覚えています。

 水野 奥田さんらしい先見の明ですね。じつは、ヤング委員長はヒューレット・パッカードの社長だったにもかかわらず、報告書ではパソコンのこともネットワークのこともほとんど触れていないんですよ。ただ、LSIのパターン図こそが重要なんだとか、ハードよりソフトを上位に見ていたことは確かで、それが知的財産権の強化というコンセプトにつながっていますね。

 1989年には、日米の半導体摩擦が激化、日米半導体協議会が開かれました。私は日本側の代表、アメリカからはノイス氏などが出て、激論を闘わせた。ノイスはこの協議会の最中、自宅のプールで急死してしまい、協議会での激論のあまりの憤死ではないかと見る人もいたほどです。ノイスの発言で今でも忘れられないのは、「1960年代中頃、日本からプレナー特許をよこせ、よこせとしつこく言うから、あんな敗戦国家なんだからやってもいいだろうと思って安い値段で渡してしまった。私の最大の失敗だった。悔やんでも悔やみきれない」という言葉です。

 奥田 ヤフーとかグーグルとかは、そうした背景の中で産まれてきたわけですね。

 水野 そうだと思います。ところで、ヤフーのジェリー・ヤンさんは一時期、日本に滞在していたのを知ってます? スタンフォード大学は、1990年代、京都にもキャンパスを開設して、私も教授を引き受けていたことがあるんですが、91年頃は日本に興味を持っている若者が10人ほど留学で来ていました。そのなかの一人がヤンさんなんですね。私は直接には会っていないんですが、私の秘書を務めていた女性は彼をよく知ってましてね、「そんなにできのいい生徒じゃなかったわよ」などと言いながら、「彼の奥さんになってたら、億万長者だったのに」とぼやいてました(笑)。(つづく)

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Profile

水野博之

(みずの ひろゆき)  1929年4月20日、広島市生まれ。52年、京都大学理学部物理学科卒業。同年松下電器産業入社、松下電子工業取締役を経て、85年松下電器取締役、90年技術担当の最高責任者として副社長に就任、2期4年間務める。現在の関与先は、  大阪電気通信大学副理事長  広島県産業科学技術研究所所長  高知工科大学名誉教授  コナミ取締役  メガチップス取締役  イノベイション・エンジン取締役  イーシリコン・ジャパン技術顧問会 議長  オリンパス・キャピタル・ホールディングス シニア・アドバイザー  45コーポレイション取締役  Japan Patent Development顧問  著書は『大航海時代――ニューフロンティアを求めて――』(コンピュータ・ニュース社刊)など多数。