「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
 
<1000分の第3回>

※編注:文中の企業名は敬称を省略しました。
 

JIPDEC経由で取材の話が…

 前回、アンドリュー・ポラック記者のことに少し触れた。コンピュータ・ニュース社を立ち上げたばかりの私にとって、ニューヨーク・タイムズ紙に取り上げられたことは大きな勲章として、忘れられない思い出となっている。

 1984年、日本情報処理開発協会(JIPDEC)の田中京之介参与の依頼によって、レポート「Personal Computer Market In Japan」の原文を書いたが、これを読んだのがポラック記者であった。彼は、日本の国際競争力はなぜ強くなったのかというテーマで、日本に取材に来ていた。鉄鋼、家電、事務機などいくつかの業界を回っていたようだが、パソコンについては前記レポートの発行元であるJIPDECを訪問し、田中氏の紹介を受けて私のところに取材に来たのだった。
 

6時間に及ぶ取材


 取材は2時間くらいとのことでスタートしたが、話が弾んで6時間にも及んだ。彼の関心は、パソコンも10年後には日本メーカーの天下になっているのではないか、というところにあった。私は「それはない」と答えた。コンピュータはハードウェアとソフトウェアで構成されるが、「ハードはともかく、ソフトのシェアは人口によって決まる。アメリカと日本の人口差を考えれば、日本はアメリカには絶対に勝てない」というのが私の考えだった。

 別れ際、「奥田さんの話は理にかなっている。記事の中に奥田さんの名前を入れて紹介するよ」といって米国へ帰っていった。そのニューヨーク・タイムズ紙の切り抜きを送ってくれたのは、1984年当時、BCNに「アーニーのアメリカ報告」というコラムを連載していたアーノルド・ルソフ氏だった。その切り抜きを手にとると、私の名前のところに赤ペンでラインが引いてあり、「wonderful!」と添え書きがしてあった。
 

「あっ、そう」に、がっくり

 有頂天とはこのことだ。名にしおう大新聞、ニューヨーク・タイムズ紙に、コンピュータ業界の専門家として名前が載ったのだ!

 そこが凡人の凡人たるゆえん。自慢したくてしかたがない。切り抜きを額に入れて飾り、事務所に来る人すべてに見てもらった。「すごい!」の誉め言葉がほしいがために。

 ところが、である。ほとんどの人の口から出てくるのは、「あっ、そう」の一言。それで終わり。まったく関心を示してもらえない。

 私にとっては勲章でも、他人にとっては関心の的から外れている。当事者とそうでない人の、物事の受け止め方の落差の大きさを、身をもって知らされたものだった。